2021年冬号・1月31日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
罪ゆるされた女性 ―――――― ヨハネ 8:1-11
伝えるポイント;自らの罪を思えばだれも女を罪に定めることはできず、イエスも女の罪をゆるされた。

ポイント1
 クリスチャンといえども、同じ罪の反復の中に生きている。意思とか信仰が弱いのだと言ってしまえばそれまでであるが、頭ではわかっていても人間はたやすく変わらない。変われない。洗礼者ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と説教した。(注1)しかし、私たちに確かな実は結ばれているか?年がら年中「お前は駄目だ!駄目だ!」と説教されたところで、人は成長しないし、第一それはキリストの福音の本質ではない。また聖書は私たちの「義務」として自分が被害者の側なのに、何が何でも人を赦せと命じているのでもない。許すことこそ難しい。人間に記憶がある限り。けっきょく私たちはちっとも相手の気持ちになって考えていないだけである。自分の気持ちしか考えていない。だから私たちには「もう、嫌な事を忘れる時」「自分自身を赦して、自分を解放するとき」が必要である。ところで四つある福音書のうちヨハネにだけは「悔い改め」という言葉が全くと言ってよいほど出てこない。神に救っていただくための条件的な書き方がされておらず、むしろ主の許しが強調されている。「神が御子を世に遣わされたのは、『世を裁くため』ではなく、御子によって『世が救われるため』である。(3章17節) 」世界の宗教は信者の幸福、長寿や癒しを願い、それを「救い」と考える。しかしキリスト教の救いとは神の許しである。キリスト教とは「神の許しを喜ぶ宗教」だと定義することも可能である。

ポイント2
 愛とは皆から愛されている人を自分も愛することとは限らない。そんなことは誰でもする。
 また愛とは正しい者に見方することとも限らない。正しい者に味方するのは律法の仕事である。イエスの愛は、間違っている人の味方になること。その結果、かばっているイエスも人々から非難されてしまった。しかし実は、神の子は安易に姦淫を許したのではなかった。ただ彼女の身代わりになった。しばらくの後、イエスはいわれのない罪を言い立てられ、石打ちより残酷で苦しい十字架にかかり死んでゆかれる。神の子は全人類から復讐の石を投げつけられ、十字架にさらされた。
 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖い(あがない)の業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(ローマ書3章23節~25節)」

ポイント3
 相手もいたはずの姦淫の現場で女ひとりだけが捕えられたということは、女性が誰かに置き去りにされた、月並みな言葉でいえば捨てられたことを暗示する。それは絶望的な孤独。しかし意外にも彼女はひとりぼっちではなかった。会ったこともなかった赤の他人イエスが彼女をかばってくださった。孤独とは結局のところ、敵であれ味方であれ人々に囲まれていたはずだった者が「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、最後に自分一人だけになる」こと。いな、自分とイエスだけが残る。しかしイエスはやがて身を起こして言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。」許されて生きる!

(注1)そもそも「悔い改め(ギリシア語メタノイオー)」は「別の思いになる」程度の意味なので、「悔い」という翻訳上のニュアンスは希薄ともいわれる。

■ 中高科
罪ゆるされた女性 ―――――――ヨハネ 8:1-11
伝えるポイント;自らの罪を思えばだれも女を罪に定めることはできず、イエスも女の罪をゆるされた。

準 備
 ファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女をイエスの所に連れて来た。律法の規定では、このような女は石打ちによって死刑に処せられることになっていた(レビ記20:10、申命記22:22-24参照)。ファリサイ派の人々はイエスを陥れるために、「律法は石で打ち殺すように命じているが、あなたはどう思うか」と質問をした。もしイエスが、「赦す」と言えば、律法の教えに反することになり、「石で打て」と言えばイエスは冷淡で憐れみのない者とされ、さらにローマ政府の定めにも反してしまうことになってイエスを窮地に追い込む巧みな問いであった。
 イエスはその問いに直接答えず、地面に指で何かを書き始めた。イエスは何を書かれたのだろうか。これは想像でしかないが、要約すると、「神を愛せよ」、また「隣人を愛せよ」(ルカ10:27)との律法を書いておられたような気がする。そして人々に、「あなた方の中で罪のない者が石を投げよ」と言われた。すると年長者からその場を去って誰もいなくなった。自分の内にある罪を認めることが主の憐れみに与る者とされるのである。
 イエスは女に、「あなたを罪に定めない」、「もう罪を犯さないように」と言われた。「憐れみは裁きに打ち勝つ」(ヤコブ2:13)のである。イエスは、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られたのである」(マルコ2:17)

説教例
 皆さんも自転車に乗ることがあると思いますが、自転車は原則的に道の左側を走行しなければなりませんよね。ところが、それを守らずに反対側を走行して来る人がいると、ぶつかりそうになって危険ですね。そして、その人のことを本当に腹立たしく思う筈です。ところが、自分も道路の状況によって反対側を走行しなければならないことがあったとして、それを誰かに注意されたりすると、「いつもはちゃんと守っているだから、そんなにうるさく言わないで!」と文句を言いたくなるのではないでしょうか。人は他人のしていることにはすぐに気付くのですが、自分の姿は見えないことがありますね。
 イエスさまが神殿で人々に教えを話しておられる時、律法の教えを厳格に守っているファリサイ派の人々が、夫以外の人と関係を結んだ女の人をイエスさまの所にひっぱってきました。この時代では、このような罪をおかした場合、人々から死ぬまで石を投げつけられる刑に処せられることになっていました。そしてファリサイ派の人たちはイエスさまを陥れようとして、「『律法は石で打ち殺せ』と命じていますが、あなたはどう考えますか」と尋ねました。それは、もしイエスさまが、「その女性をゆるしなさい」と言われたなら律法に反することになり、もし「石で打ちなさい」と言えば、イエスさまは冷淡で憐れみのない者と言われてしまいます。ところがイエスさまは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が石を投げなさい」と言われたのです。
 その言葉を聞くと、年長者から一人ずつ立ち去ってしまい、誰もいなくなりました。皆が自分の中にも罪があると気付いたのです。そしてイエスさまはこの女性に、「わたしはあなたを罪に定めない」、また「もう罪を犯してはならない」と言われました。ヨハネの手紙1:9には、人が自分の罪に気付いて、それを悔い改めるなら、神さまはその罪をゆるして下さると約束されています。私たちは罪を犯さないように生活したいと思いますが、不幸にも罪を犯したなら、心から神さまに、「罪をゆるして下さい」と告げましょう。そして「罪を犯さないように守って下さい」とお祈りしながら日々を歩んで行きましょう。

■ 小学科
罪ゆるされた女性 ―――――――ヨハネ 8:1-11
伝えるポイント; 自らの罪を思えばだれも女を罪に定めることはできず、イエスも女の罪をゆるされた。

準 備
 性的な事柄は話の仕方に苦慮しますが、神が祝福をもって定められた関係ですから、自信をもって伝えたいところです。イエスが何を地面に書いておられたかは不明です。また、司法制度を否定するものではありません。人の罪を裁くときは、常に自分自身を顧みて、自分にも罪があることを忘れてはならないことを教えられます。

説教例
 警察に逮捕されたことはないでしょうけど、大人に怒られたことは一度や二度は必ずあると思います。いたずらやケンカをして、また誰かのものを誤って壊してしまったときなど、叱られるきっかけになることは結構あります。怒られたら嫌な気持ちになります。納得できない気持ちもあり、私たちはなかなか素直に謝ることができません。冷静に考えれば明らかに悪いことだと思えるときにでもです。しかし、謝ることは格好悪いことではありません。悪いことを悪いと認め、相手に謝ることができるのは素敵です。自分自身をきちんと振り返ることができる人です。
 今日の聖書に登場した女性は、あることで責められていました。彼女は「姦通」の罪を犯して捕まったのです。「姦通」とは浮気をすることです。この女性で言えば、結婚していたパートナーの男性以外の人と親密な関係、性的な関係を持ってしまったのです。それは聖書で神さまが定められた関係を越えることで、犯してはならない罪と戒められています(出20:14、17)。聖書の時代、その罪はとても重く、人を殺してしまったときと同じように、石で打ち殺されなければなりませんでした。
 イエスさまのことをよく思っていなかった律法学者たちは、この女性をイエスさまのところに連れてきました。彼女をどう裁くべきか、イエスさまの考えを聞くためです。真剣に助けを求めたのではなく、言いがかりをつけてイエスさまを訴えるためでした。周りの人々はイエスさまがどのようにお答えになるか、じっと待っています。イエスさまはかがんで地面に何かを書いておられましたが、身を起して言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。その一言で人々は人々は皆、はっとして自分自身のことを振り返ったようです。「自分は姦淫や殺人をしたことはない。でも罪を全く犯したことがないと胸を張って言えるだろうか?」何人か既に石を投げ始めていたら、加わって投げる人がいたかもしれません。しかし、誰も投げていない中、投げ始める人はその場にいなかったのです。自分も神さまのみ前に一人の罪びとだ、と皆判断したということです。これはちょっとした機転の利いたとんちのように思えますが、それだけでは人々は動かなかったと思います。イエスさまのお言葉に力があったからこそ起こった出来事でしょう。
 誰もいなくなり、目の前におられるのは、罪のない神さまの独り子、イエスさまお一人だけでした。イエスさまは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいました。それは、姦淫の罪を軽く見ておられるわけではありません。罪は罪にちがいありません。この後、イエスさまは彼女の代わりにその罪を償ってくださるのです。十字架の苦しみと死は彼女のためでもあったのです。イエスさまの十字架の死によって罪ゆるされた今、彼女自身も自分を正しく振り返ることができるようになったのです。私たちもそこに導かれているのです。

■ 小学科ワーク

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