2020年夏号・小中高科7月5日 ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
主は備えてくださる  創世記 22:1-14(朗読は22:1-3)
伝えるポイント:神の命に従って息子をささげようとしたアブラハムの信仰に対し、別のいけにえを備えられた。

 先週は、「アブラハム契約」=神の一方的な選びと祝福に関する個所であったが、本日はアブラハム物語の締めくくりともなる「イサク献祭」の個所である。ここに至るまでの間には、約束にも関わらず子が与えられないアブラハムの苦悩、ハガルによって子を得ようとした人間的な企て、それに伴う家族の混乱と悲劇、神の人の来訪とアブラハムのとりなし、ロトとソドムの物語など、多くのトピックがある。
 またイサクがいかに長い間忍耐をして与えられた子であったのかを抜きにして「イサク献祭」の話となると、聞いている子どもたちも混乱すると思う。教師はこのアブラハム物語の個所をよく読み、流れを理解したうえで臨んでほしいし、またうまく補っていただきたい。
 イサクはアブラハムにとっては奇蹟的に与えられた年寄りっ子、文字通り「愛するひとり子」であった。目に入れても痛くない存在であったであろう。アブラハムは神から特別に選ばれたが、子が与えられたアブラハムは、神よりも子を優先させることになった。神はアブラハムを真の意味で信仰の基とするために、神よりも大事な存在となったイサクを献げることを求められた。
 神の命令は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを・・・焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」である。
 この神の言葉は、アブラハムにとって衝撃だったはずである。どれほど苦悩し、神を疑い、混乱した眠れぬ一夜を過ごしたことだろう。しかしその苦闘に関して、聖書は沈黙している。私たちにも時に同じような信仰の試練があり、眠られぬ夜を過ごすことがある。彼はどう、神の前に祈ったことだろう。
 翌朝、アブラハムはおそらくサラには経緯を一言も告げずにイサクと従者たちを従え、モリヤの山に向かう。山が見えるところで、アブラハムは、従者たちにこう告げる。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。(一人称複数形)」
 「モリヤ」は、後にソロモンが神殿を建てたモリヤ山(Ⅱ歴 3:1)とされている。モリヤが主の山と呼ばれるようになったのは、主がダビデに現われる以前(Ⅱ歴 3:1)、この時代からであったと考えられる。その地はメルキゼデクとの関連で、すでにアブラハムには特別の地として記憶されていたのだろう(14:18 ‐20、シャレム=シオン、詩76:2)。
 現代では、そこにはイスラム教の「岩のドーム」が建てられているが、その岩がアブラハムがイサクを献祭した岩であり、またイスラム教のムハンマドが昇天した場所とも言われている。
 父子二人の会話は丁寧につづられている。しかし程なくイサクは縛られて祭壇の上に寝かされる。ただならぬアブラハムの面持ちと緊張感に押され、イサクは抗することもなく祭壇に横たわったのだろう。「そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」手を振り上げた瞬間、アブラハムは本当にイサクを神に献げ切ったのだ。
 ヘブライ 11:17-19では、「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」アブラハムにとって、神が「大いなる国民とし、砂のようにあなたの子孫を増やす」と約束してくださっているのならば、ここでイサクを献げても、必ずよみがえらせてくださるに違いないと信仰によって受け取ったのだ。
 もはやアブラハムとって溺愛の対象「我が子」イサクは死んだ。それを確認したうえで神が介入された。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 この前後では、アブラハムの信仰、子に対する思いと態度は一変した。かくてアブラハムは、信仰の父として呼ばれるに相応しい存在となった(ヤコブ2:21 ‐24)。
 主は代わりに雄羊を備えてくださった。「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」
 アブラハムが神の約束に信頼しきり、御声に聴き従った故に、16-18節では、その約束がますます確かなものとされると言われている。

■ 中高科
主は備えてくださる  創世記 22:1-14(朗読は22:1-3)
伝えるポイント;神の命に従って息子をささげようとしたアブラハムの信仰に対し、別のいけにえを備えられた。

説教にあたって
 最愛のひとり息子を神の命令に従って捧げようとしたアブラハム。神は身代わりのいけにえを備えてくださった。私たちの中で、神以上に大切になっているものはないだろうか?アブラハムの場合、息子イサクがいつしか彼の偶像になってしまっていた。神はまず、ご自分を第一とする信仰を求められる。従った時、神はアブラハムにイサクも返してくださった。

説教例
 今日は、信仰の父と呼ばれたアブラハムの最大の試練を学びます。神さまから示された地に行けと呼び出され、以来ひとすじに信仰の道を歩み、神に従ってきたアブラハムでしたが、そんな彼に対して神さまは彼の信仰を試されます。それは、あなたは本当にわたし(神)を第一とするか、というテストです。神さまはいつものようにアブラハムに呼びかけ、ひとつの命令を彼に与えます。それは「あなたの愛する息子イサクを、焼き尽くす捧げ物としてささげなさい」という過酷なものでした。
 これを聞いたアブラハムの反応は書かれていません。しかし、おそらくは耳を疑い、半狂乱になったことと思います。神さまはなぜ、このような残酷な命令をなさるのか――?それは、ひとり息子イサクの存在が日に日に大きく、大切なものとなり、いつしかそれはアブラハムの中で神以上の存在になっていたからからかもしれません。彼の心の中心にあったのは神ではなく、イサクだったならば、イサクは彼にとっての「偶像」であり、アブラハムの信仰はきわめて危険な状態だったということになります。
 私たちも日常生活を送る中で、日々いろいろなものに心を囚われてしまうことがあります。皆さんにとってそれは何でしょうか?学校の友達とのつきあいだったり、部活であったり、塾やテストの成績だったりするでしょう。ある意味、どれも大切なことなのですが、そのどれもが永遠に続く問題ではありません。私たちの永遠の命を支配なさるのは神さまであり、人間はまず、この神さまに目を向けることの大切さが聖書では語られています。
 さて、アブラハムは苦悩した末、神さまの命令に従う決心をします。翌朝早く、捧げ物を燃やす薪だけを用意し、息子イサクを連れて命じられたモリヤの山をめざすのです。二人は無言でした。途中、イサクは父親の様子がおかしい、いつもとは違うことに感づきます。薪は自分が背負っていましたが、父はたいまつと刃物だけを手にしています。しかし…。たまらず、イサクは父親に問いかけます。「お父さん」「ここにいるよ」「捧げ物の小羊はどこにいるのですか?」息づまるような瞬間だったでしょう。父は息子の問いかけに苦しみましたが、落ち着いてこう答えるのです。「捧げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と。
 アブラハムには、確信があったのかもしれません。ようやく与えられた約束のわが子を神が取り去られるわけがない、神さまはいつも約束を守られる方だったと。今は命じられたとおり息子を捧げねばならない、いざとなったら神は身代わりを備えてくださるはずだ、そうではなかったら?いや、それでも自分は神に従おう、神さまの最善にゆだねる覚悟がアブラハムにはできていました。
 そしていよいよというとき、天の御使いの声がイサクを捧げようとするアブラハムを制止させます。見ると、近くに雄羊がいます。彼はそれを、イサクの代わりに捧げ、その地を「主は備えてくださる」という意味の名をつけました。「主の山に備えあり」。これを信じるとき、本当に必要なものを神さまは必ず備えてくださいます。

■ 小学科
主は備えてくださる  創世記 22:1 ―14 (朗読は22:1-3)
伝えるポイント:神の命に従って息子をささげようとしたアブラハムの信仰に対し、神は別のいけにえを備えられた。

説教にあたって
主の命令とは言え自分の息子をささげるこの話は酷いものと捉える方もいるであろう。だけど神さまはアブラハムへの約束とイサクの命を守るため犠牲の備えを用意して下さったのである。その神さまは私たち人間の罪の赦しと救いのため、ご自分の御子を犠牲の備えとされたのである。神さまが備えて下さった事実を伝える。

説教例
 アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の時にイサクが生まれました。神さまがアブラハムに「あなたの子孫を偉大な国民にする」とおっしゃってから25年が経ちました。そしてやっと待ちに待った息子が与えられたのです。イサクは大切に育てられ神さまを信じる少年になりました。そんなあるとき神さまはアブラハムに、「イサクを連れてモリヤという場所に行きなさい。そしていけにえとして私に捧げなさい」とおっしゃられたのです。何ということでしょう。イサクが死んでしまったら神さまの約束はどうなってしまうのでしょうか。アブラハムは、どうすれば良いのか分からなくなりました。悩みに悩み祈りに祈ったでしょう。神さまに従いイサクを連れてモリヤへ行くことにしたのです。アブラハムは火と刀をもって、イサクは薪を背負って山を登りました。「お父さん、薪と火は持ってきたけど、神さまにおささげする羊はどこにあるのですか」。「ささげものの羊は神さまが用意して下さるよ」。山の上にやって来るとアブラハムは石を積み上げて祭壇を作り、その上に薪を並べました。そしてイサクを縛り薪の上に置いたのです。イサクは逃げませんでした。なぜならお父さんが神さまに従うことを知っていたからでした。アブラハムは悲しみのあまり胸が張り裂けそうだったでしょう。でも持っていた刀を振り上げたのです。その時、神さまの声が聞こえたのです。「アブラハム、アブラハム。その子に何もしてはいけません。あなたが神さまの命令に従うことが分かりました」。すると藪に角をひっかけている雄の羊がいました。イサクの命を救うため、そしてアブラハムとの約束を果たすため神さまが用意して下さったのです。アブラハムはイサクの代わりに羊をささげたのです。こうして神さまはアブラハムに、天の星や砂浜の砂のように数えきれないほど大勢の子孫を与える約束をされ、それを叶えてくださったのです。
 アブラハムにイサクをささげなさいと求められた神さまは酷い方と思えるかもしれません。だけど神さまは本当に自分の子どもをささげたのです。御子であるイエスさまは私たち人間の罪の罰の身代わりとなって十字架にかかられて死なれました。でも三日目によみがえられたのです。これを信じることによって私たちは罪が赦され救われることになったのです。神さまは私たちの救いの供え物のために御自分の御子を用意し、本当にささげられたのです。

■ 小学科ワーク
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