2021年冬号・2月14日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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ヨハネ8章1~11 罪を犯したことのない者が石を投げなさい

 今回の箇所では主に二つのことについて書いてまいります。一つは姦淫を犯した女性が連れられてきたことを通して「律法」の限界を考えます。もう一つは「罪」を知った者の在り様(よう)についてです。
 一番目の、姦淫の現場にいた女性を連れてきたのは律法学者やファリサイ派の人々です。彼等は純粋に律法の言葉を生き方としていた人たちでしょう。彼らは、この女性を律法によって審(さば)くことを良しとしていました。律法に依って立つ限り、彼らが行う審きは決して間違った判断ではありません。イエスも「審(さば)き」そのものについては、条件付きですが認めています(7節)。
 ここで私たちが見なければならないのは、イエスが条件として彼らに告げた「罪を犯したことのない者が」という言葉です。「罪を犯したことがない」という言葉は、律法の中に記されていない事柄だと考えます。「律法」に生きる彼等ですが、「律法」にはない言葉で彼らが審かれました。イエスが「罪を犯したことのない者から石を投げなさい」と語ったとき、罪があることに彼らは気づいたのです。繰り返しますが、彼らが罪の規定の根底となるはずの律法によっては、彼ら自身の中にある罪を知ることができなかったということです。「律法」の限界がそこにあると言わなければなりません。罪があることを知らせるのは「律法」によるだけではないことを知る必要があります。
 もう一つは「罪を自覚した者の在り様」のことです。罪を犯した女性に石を投げることができなかったのは彼等だけではなく、そこにいたイエスと女性を除くすべての人でした。つまり、彼らはみな「自分には罪がある」という自覚を持たされたのです。誰も何も言うことなくその場を去って行ったようです。「自分には罪がある」と知りながら、その「罪」をどのようにする、どのようにされることによって解放されるのかということが本日の個所では記述されていません。「私は罪あるもの」という思いを抱きながら歩んで行くことになります。その思いはどのようなものなのでしょうか。
 イエスを試そうとしたファリサイ派や律法学者は思惑から外れて、イエスから「罪あるあなたはこれからどう生きるのか」と、問われ始めたということができます。意地悪な言い方をすれば「あなた方が大切にしている律法では、罪ある者の罪をどうすれば解放できるのか」という問いでもあります。
 教会は「罪の赦し」を語ります。そこには「罪がある」ことがまず語られる必要があります。そして、イエスによって神は罪をお赦しくださる方、というメッセージとならなければなりません。「罪」の自覚のない赦しはいい加減な赦しにつながると考えるのです。本日の個所において、「罪」と「赦し」という問いがイエスからすべての人に対して、発せられたのです。

【設問】 「罪」について語ることがあるとすれば、何が「罪」かについて黙想し、その後、皆さんで語り合ってください。時間があれば「赦し」についても語ってみてください。このことが教会にとっての大切なメッセージとなり、皆様方にとっての信仰の糧となることを願います。
参考賛美「罪 咎を赦され 神の子とせられ」(新聖歌263番)

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