2021年冬号・3月7日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
イエスさまは道である ―――― ヨハネ 14:1-6
伝えるポイント;イエスは、父なる神の家にある私たちの住むところを用意された。イエスを通らなければそこへ行けない。

ポイント1、
 道なき道、たとえば複雑な地形の海峡を航海する古代の船にとっては、道とは「水先案内人(パイロット)」の指示そのもののことである。ましてや島影ひとつすら無い大洋に出れば、道しるべも何も無く、見えるのは水平線のみ。そのような洋上における道とは羅針盤や天体を観測して知ることが出来る正しい「方角」だけであった。人生を歩む航海において、イエス・キリストは道そのものである。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか(ヨハネ14章2節)。」父によって私たちに用意された場所とは何処か?東京都の小平霊園にあるナザレン教団墓地に刻まれている通り、「我らの国籍は天にある。(フィリピ書3章20節)」イエス・キリストは、この永遠の御国に至るために開かれた唯一の道である。

ポイント2、
 しかし私たちは、しばしば間違った方向に進む。そして方向を間違っているにもかかわらず、そのまま強引に人生の目的に到達しようとする傾向がある。間違った道を通って本当の幸せを得ようとしても、結局何も得られない。それでも私たちは自分自身の人生から何も学ばない。もし過去の経験から学んでいたら、人間に幸せをもたらすのが何であったか思い出したであろうに。子供はお母さんの抱っこだけで全てが満たされて最高に幸せだったのに。わたしたちは自分が満足したいと思いつつ、全く見当外れな方向に向かって行く。ある人はきるだけ労働したくない。働く時間が少なく自由な時間が多くなれば、きっと幸福だと信じこんでいる。しかし満足というのは、逃げても与えられず、満足な思いは、何かを達成した時にだけ与えられる。だから仕事が楽しければ人生は幸福である。自分の仕事にプライドを持ち、肉体の疲れにすらも満足する生き方である。とはいえ、コヘレトの著者が嘆いた(注1)通り、しばらく経つと一切が空しい。

ポイント3、
 間違った方向、それは自分にばかり目を向けていることであり、自分を見るとは自分を憐れみ自分をかわいそうと思い、周囲をうらやましく思うことである。そこにはサタンの罠がある。他人と見比べて自分をいくら擬視したところで、不安や憂鬱からは解放されない。正しい方向を見るとは、道であり闇に輝く光であるイエス・キリストに目を向けていることである。キリストを見ると、自分の本当の使命が何か、人ではなく、神様がわたしに与えておられる使命が、どのように生きるべきなのか、どのように一生懸命生きるべきなのかを知る。結局のところ、幸せへの道は、自分と神様との正しい関係にある。そして幸せへの道は、自分と隣びととの正しい関係にある。そしてこれらは決して間違った方法では得られない。イエス・キリストによらない限り。「わたしが道であり、わたしが真実であり、生命の源である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

(注1)コヘレト2章11節など。


3月7日 中高科
イエスさまは道である ――――――― ヨハネ 14:1-6
伝えるポイント;イエスは、父なる神の家にある私たちの住むところを用意された。イエスを通らなければそこへ行けない。

準 備
 イエスがご自分のことを、「道、真理、命である」と言われたが、それはこの章の前後からも、「御国に至る道、御国における真理、御国に満ちる永遠の命」を指して語られている。
 英語の“way”には、「方向」の意味の他に、「方法」という意味もある。すなわち「道」を見出すことは、どのような生き方をするのかという、「人生の生き方」を見出すことでもある。ジョン・バンヤンの「天路歴程」も読んでおきたい。「真理」とは、「絶対的な正しさであり、あらゆる時代、文化において、全ての人に受け入れられる道理」のことである。またそれだけでなく、「真理」は、「人に徳を与え、平和をもたらし、人を生かすもの」の筈である。この意味においても、イエスこそ真理なるお方である。「命」は「永遠の、そして希望の命」である。イエスを信じた者に、罪の赦しと、永遠の命が与えられ、また神の子と呼ばれる者とされる恵みがあることを生徒たちに教え、イエスを主と信じる信仰の大切さを確認したい。

説教例
 自分のことを紹介する時は、自分の学校や得意なことなどを紹介することが普通ですが、イエスさまはご自分のことを、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。少し不思議な紹介の仕方だと思いますが、それにはイエスさまの本質が良く表されています。
 「イエスさまが道である」とはどういう意味でしょうか。もし私達が友だちの家や観光地に出かけるとした場合、その目的地に行く道順がありますね。「道」は目的地につながっているのです。どの道を通って行けば良いのか、その道順を知っていれば、行きたい所へ間違いなく行けますね。道を知らなかったり、見失って迷子になったりしたら行きたい所へ行くことが出来ません。皆さんは、やがて進学したり、就職したり、結婚したりと、様々な道を選択して進んで行かれると思いますが、「わたしは道である」と言われるイエスさまを信じて毎日を生活して行くなら、最も幸いで、しかも素晴らしい人生を歩んで行くことが出来るのです。そればかりか、私たちの最終的な目的地である父なる神の御国に行き着くことが出来るのです。
 また、「イエスさまが真理である」とは、イエスさまの教えは、「絶対に正しく、間違っていない」ということであり、「どんな人にとっても正しいと受け容れられることであり」、さらに、「人を幸いにするもの」ということです。仮に、ある人たちが、「自分達の考えや教えこそ真理だ」と言いながら、法律を犯すようなことをしたり、人を傷つけたりするなら、その人たちは真理だと主張する資格がありませんね。神の御子、イエスさまだけが、「わたしは真理である」と言えるのです。私たちは、この世界の中で一番正しく、確かであり、そして幸いな方、すなわち真理であるイエスさまの教えに導かれながら日々を歩むことが出来るのです。
 そして、「イエスさまが命である」とは、イエスさまが永遠の命を与えて下さるお方であることを示しています。イエスさまは、亡くなったラザロを悲しむ家族と友人に、「わたしは復活であり、命である」と言われました。そのお言葉のとおり十字架で死なれましたが、三日後に甦られました。そのイエスさまを信じる者は、永遠の命が与えられて永遠に生きる者とされる約束があるので、死の先にも希望があるのです。イエスさまに日々導かれながら、命の御国を目指して進んで行きましょう。

■ 小学科
イエスさまは道である ――――――― ヨハネ 14:1-6
伝えるポイント;イエスは、父なる神の家にある私たちの住むところを用意された。イエスを通らなければそこへ行けない。

準 備
 道、真理、命、どれも奥深く、難しくなりがちな事柄です。できるだけ平易な言葉で語れたらいいですが…。日常生活において、神さまを仰ぐ姿に生きることこそ、神さまが求めておられるあり方です。

説教例
 新型コロナウイルスのために、私たちの日常生活は大きく変化しました。非常事態宣言が出されたときなどは、余計にいろいろな恐れや不安に襲われるものです。「神さまはどうしてコロナから守って下さらないのだろう? 本当に神さまは、イエスさまは本当におられるのだろうか? 本当に救いを与えて下さるのかな…」。そのような疑いによって、私たちの心が騒がせられるのです。今日のイエスさまのみ言葉はそんな私たちに語りかけて下さいます、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。
 この場面は、イエスさまがいわゆる「最後の晩餐」の席で弟子たちに語られたところです。この後、イエスさまは捕えられ、翌日には十字架につけられます。そして三日目に復活し、天に昇り、父なる神のもとに行かれるのです。そのようにして、イエスさまは弟子たちから離れようとしています。もうイエスさまの姿を見ることができなくなるのです。これまではずっとイエスさまが側におられ、神さまのみ業を行ってくださっていたのに…。これから自分たちだけで生きていかなければなりません。イエスさまなしでは「心を騒がせる」であろう弟子たちを想い、イエスさまは将来の救いを約束する言葉を掛けられたのはないでしょうか。「私は去っていくが、それはあなたがたのための場所を用意しに行くためだ、準備ができたらまた戻ってきてあなたがたを私のもとに迎えよう」と。
 素晴らしい救いの約束ですが、私たちはどうしてそのみ言葉を信じることができるでしょうか? トマスも疑問に思い、イエスさまにお尋ねしました。そこでイエスさまがおっしゃったのが、あの有名な「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」というみ言葉です。これはイエスさまに留まること、それが私たちにとって一番大事であることを教えています。イエスさまを信じることは、神さまを信じることです。御子イエスさまこそ、父なる神様のもとに通じるただ一つの「道」。それは「真理」(本物)の道であって、私たちを日々新しく生かし、永遠の命を与えるくださるのです。イエスさまはご自身の十字架と復活によって、この救いの道を与えてくださったのです。
 心を騒がせられることの多いこの世の中、道であり真理であり命である主イエスさまがより求められます。イエスさまを遣わしてくださった父なる神さまの愛の中、イエスさまは今日も私たちを新しく生かしてくださるのです。いろいろ迷いながらも、確かな「道」であるイエスさまの導きを求めていきましょう。天に昇られたイエスさまが今用意して下さっている私たちの「住む所」、救いに向かって、私たちはイエスさまを礼拝しつつ歩んでいくのです。
 「ご本人、道であられる神の独り子イエスがそれを可能ならしめて下さいました。」

■ 小学科ワーク

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