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【第3章】あなないの心

2023年10月出版『日月神示に学ぶ ひふみの生き方』の全文を各章・各チャプターごとに掲載しています。


今回は、第3章『あなないの心』を掲載します。




◎すべては異なる性質同士の働き合い


何事も持ちつ持たれつであるぞ。
善一筋の世と申しても
今の人民の言うているような善ばかりの世ではないぞ。
悪でない悪とあなないているのざぞ。
このお道は、あなないの道ぞ、
上ばかり良い道でも、
下ばかり良い道でもないのざぞ。(日月の巻・第九帖)


『日月神示』には、文中何度も「あなない」「あななう」という表現が登場します。


「あななう」とは「支え合う、助け合う」という意味であり、宇宙は「陰陽」(光と闇)の支え合い、助け合いでこそ成り立っているのであって、その原理を忘れて互いに対立し、役割を殺し合っていては弥栄には至らないのだと言います。


私たちはこの世に生まれてから今日に至るまで、教育や日々の生活の中で様々な善悪を教えられ、国や民族、あるいは世界的な通念としての善悪を形作って来ました。
しかし、それらはあくまでもこの地上世界における善悪の尺度であり、宇宙から見ればすべての善悪はそれぞれの性質の働き合い・・・・に過ぎません。


私たちがその真実を思い出し、宇宙には本質的、絶対的な善悪など存在しないという視点に立ち返らない限り、人と人、存在と存在の対立や分断が終わることはないのです。


長い間、私たちの世界では悪を排除し、駆逐すれば理想とする善の世界が訪れるといういわゆる「勧善懲悪」の観念に基づいて社会が作られ、法律やルールが作られて来ました。


しかし神示には、「悪とは他を退ける事であるぞ」(雨の巻・第十一帖)「善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と言う」(地震の巻・第二帖)とあるように、この世の善悪とは単に「陰陽」(光と闇)の性質の一面的な表れを指しているだけであり、本来は相互的なあなない=助け合いに過ぎないのだから、それらが対立することなく調和し、それぞれの役割を活かし合う・・・・・ことこそが社会のあるべき姿だと言うのです。


◎人類が立ち返るべき「あなない」の心


神の光の生みしもの、
いだきませ善もき、
あななう所に御力みちからの、
輝く時ぞ来たるなり (海の巻・第五帖)
 
悪もご苦労のお役。
悪の改心、善の改心、
善悪ない世を光の世と申すぞ。(松の巻・第二十二帖)



近年では、人種、宗教、性別などにおける様々な差別問題が取り沙汰され、世界中で社会の多様性が叫ばれる時代になりましたが、一方で多様性を容認しない人々を集団で非難するという本末転倒のような事態を目にすることも増えました。


「ポリティカルコレクトネス」(政治的妥当性)などと謳われる社会の寛容性・多様性の問題、人間関係におけるあらゆる不快感を「〇〇ハラスメント」(実に50種以上)と呼んで犯罪化する風潮、あるいは「SDGs」と声高に叫ばれている環境問題など、一見良い動きの中にも、半分は新たな巨大ビジネスとしての側面や、大衆同士を分断させ、疲弊させることで管理社会をより強固にしようとする悪の関与がなされていることに注意を払わなければいけません。(良心や正義感を刺激し、対立や怒りの感情を煽るニュースには一貫して反応しないことが大切です)


真の多様性とは、多様性を認められない人々はもちろん、世の中の悪事や悪人をも包摂し、すべての人、すべての出来事をより良い社会のために活かそうとする心であり、宇宙に存在するすべての生命は、それぞれの魂や霊統の性質に根ざした個性を発揮しているに過ぎず、すべての営みは存在の大歓喜(弥栄)に向けた「持ちつ持たれつ」の働き合いであるという視点に立ち返るということです。


神示では、「悪を殺すことは善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、すべてを殺す結果となる」(地震の巻・第四帖)と言っています。


私たち一人一人の中にある「勧善懲悪」の心を見つめ直し、「善悪」「優劣」「正誤」といった二元的なジャッジを超えて世界を見、他者を見ることこそが、〈闇の時代〉を終わらせ、〈光の時代〉へと移行するための最も重要な鍵になるのです。


〈光の時代〉とは、光が闇を駆逐することではなく、むしろ分離し、対立し続けて来た光と闇の戦いに終止符を打ち、互いの役割を認め合い、調和して行く世界を言うのです。


そのために、善人と悪人があなない、善行と悪行があなない、人々がそれぞれの個性を発揮することで共に支え合い、助け合って生きて行く心を持つことが大切なのです。


◎自然界の「あなない」を乱して来た人類


宇宙のおける「あなない」の関係は、人間社会だけでなく、自然界や生命の働きに目を向ければいくらでも目にすることが出来ます。


私たちは、人間の生活に害をもたらす虫や動物を、害虫や害獣と呼んで駆除しようとします。
そして、「都市化」「土地開発」などと称して大規模な土地や森林を破壊し、自分たちの欲や利益のためだけに自然の生き物たちを乱獲し続けて来ました。


そのような人間本位の身勝手な排斥行為や殺生行為によって、私たちはいつしか自然界の生態系にまで影響を与え、あらゆる生物たちを存亡の危機に追い込み、地球の調和を乱して来たのです。


自然界には自然界のバランスがあり、あらゆる性質の生き物たちが互いにあなないながらその生態系を保っています。
私たちが害虫や害獣と呼ぶような生き物たちも、自然界の生態系の中では必要な存在であり、そのような生き物がいなければ生きていけない動植物がいるということを忘れてはいけないのです。


◎私たちの体もあななっている?


神は歓喜である。
生み出したものなればこそ、
生んだものと同じしょうをもって弥栄いやさかえる。(地震の巻・第二帖)
 
宇宙にあるものは皆、人間にあり。
人間にあるものは皆、宇宙にあるぞ。
人間は小宇宙と申して、
神の雛型ひながたと申してあろう。(冬の巻・第二帖)


自然界と同じように、私たちの体の中でも日々あらゆる「あなない」が行われています。


聖書には、神は自らの姿に似せて人間を作ったという記述があります。
この言葉には人類創造にまつわる様々な解釈がありますが、本来は人間一人一人の中に宇宙が内在し、それぞれが宇宙の雛形として、宇宙と同じ構造や原理原則を備えているという意味なのです。


「ミクロコスモス」(小宇宙)という言葉があるように、宇宙は巨大なマトリョーシカ(開けても開けても同じ人形が出てくるロシアの人形)のように無限の入れ子構造になっています。


私たちの知る宇宙が一つの「マクロコスモス」(大宇宙)だとすれば、その中にある銀河も、星々も、またその中にある私たちの体も、体の中にあるあらゆる臓器や細胞までもが、ミクロコスモスとして宇宙と同じ構造や法則を持って動いているのです。


最もわかりやすい例を挙げれば、私たちの腸の中には乳酸菌やビフィズス菌などのいわゆる「善玉菌」と、ウェルシュ菌、ブドウ球菌、大腸菌などのいわゆる「悪玉菌」が存在します。


悪玉菌は有害物質を作り、腸内の腐敗や炎症を引き起こし、増えすぎると下痢や便秘、食中毒を引き起こしますが、一方で消化・吸収を助けたり、免疫機能を高めたりと、腸内のバランスを保つための役割も果たしているのです。


腸内環境の維持においては、この善玉菌と悪玉菌のバランスこそが重要であり、悪玉菌がいなくなれば善玉菌も働かなくなってしまいます。
これは宇宙における「陰陽」や「善悪」の構造と同じであり、ミクロコスモスである私たちの体内において宇宙の原理原則が息づき、その真実が示されているとも言えるでしょう。


私たちは病に侵された時、「闘病」と称してその病気を敵対し、駆逐しようとしますが、それは肉体を単なる生物学的なもの、唯物的なものと見なす西洋医学的な考え方です。


東洋医学では、体のあらゆる病気は体内の「陰陽」、あるいは「五行」と呼ばれるエネルギーバランスの均衡が崩れることで起こるとされています。


体に起こる悪い症状を表面的に排除したり、蓋をするのではなく、体全体のエネルギーバランスに目を向けることで病気の原因を探り、エネルギーバランスを整えて行くことで症状を根本から治して行くのです。


このような向き合い方こそ、宇宙的な「あなない」の視点であり、体や病気のみならず、私たちの人間関係や社会全体を調和へと導く心のあり方だと言えるでしょう。



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