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琉球新報・落ち穂掲載エッセー「18年目の夏」

この島に移り住んで、今年で丸17年になる。当時22歳。2003年7月6日。
生まれてはじめて「暑くて眠れない」という経験をさせてもらった、わたしにとって忘れられない日である。

 1番最初に住んだのは那覇市の久米だった。当時で築30年は超えていたかもしれない。3K家賃2,5万。木製の窓枠にクルクル回して鍵をかけるネジ締り錠。重たい雨戸。外からは福州園の緑と筝の音色が風に乗って聞こえてくる。風呂とトイレは一体型で、シャワーのみ。古いタイルが気に入っていた。引っ越しの荷ほどきをしながら、ああ、ここでやっていくのだと想いを巡らせていた。

 紅型との出合いは、たまたま開いた雑誌に踊る「沖縄の伝統工芸を体験」という袋綴じのページにあった。
鮮やかな色。赤や橙のハイビスカスだったと思う。見たこともない色合いに胸が高鳴った。そのとき 、間違いなく恋に落ちたのだと思う。これをするために沖縄に住もう!決めた瞬間だった。

 今考えてみれば無謀な話である。若気の至りにも程がある。然しながら、その時、突き動かされていなかったらわたしは今、一体何をしていただろう。想像もつかない。

 恋した紅型とわたしは結ばれたのかはわからないが、今では生きがいとなり、仕事とな
り、表現のカタチとなった。たくさんのご縁に恵まれて、今日に至る。感謝しかない。

 わたしは高校まで故郷で過ごし、その後2年間介護の学校と演劇の夜間学校に通う。
後 、演劇は諦め就職。志を持って在宅介護の道に進むも挫折 。その頃通っていたカフェバ
ーで人生修行のような日々を過ごす。

これからどうやって生きていこう。何ひとつ形にならず、暗くて長いトンネルに迷いこんでしまったような中で、出合った紅型は間違いなく一筋の光であり、長続きしなかったわたしが唯一続いたものだった。この島で、わたしは育てていただいたという実感がある。日々染めながら、これからも生きていく。そして微力ながらでも、沖縄のこと、紅型と歴史、文化を伝えていきたいと思う。

もしかしたら、誰かの光になるかもしれない。そう、信じて。

琉球新報社 提供

*裏話*
紅型をはじめたきっかけをよく聞かれることがあります。
ネタのような本当の話なので、笑いながらよく話をさせていたただいていましたが、こんなふうにまとめることができ、機会をいただけたことに、本当に感謝しております。 

沖縄への憧れは、当時多感な頃、大好きなアーティストCoccoさんの存在がありました。
彼女の生まれた島を見てみたい、住んでみたい。その住むきっかけを探していた時に、紅型と出合ったのです。

行き当たりばったりの人生で、両親はさぞ心配したことだろうと思いますが、夢に向かうことを応援してくれたこと、鳥取からさらに離れた沖縄へ住むことを了承してくれたことを、感謝しきれません。

沖縄でお世話になった紅型工房でも、わたしは、うまく仕事ができなくて、迷惑ばかりかけていました。自我ばかり大きく、できないことに落ち込んで…。
でもその日々があったからこそ、今があると思います。

紅型だけは、本当に諦めたくありませんでした。続けていくことの大切さを教えてくれたのも、紅型です。
祈りであり、日々の心の糧です。

これからも、日々。
そして、こんなわたしを育ててもらった沖縄と文化、紅型のために、何か、ほんの僅かでも、役に立てたならば。
最近はそんなふうに思います。

伝統は脈々と続いていくこと。
後ろ手に扉を閉めるようにはしないでね、と、先生からいただいたお言葉が、胸の中にあるのです。
模索しながらですが、
続けていくこと、繋がっていくこと。
自身の技術の向上もなのですが、そんなことも、これからの歩みの中で、やっていけたらと思います。