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琉球新報・落ち穂掲載エッセー「夏に思い出すこと」

8/11、落ち穂掲載エッセー
「夏に思い出すこと」

わたしの亡き祖母は、明治40年生まれ。
89歳まで台所に立ち、家事全般をこなしていた。祖母が70代の時、女の子の初孫として、遅く生まれたわたしは、大層可愛がられて育ったので、生粋のおばあちゃんっ子だった。
 
夏といえば、おじいちゃんおばあちゃんから戦争体験を聴きましょうという課題を与えられ、聞き書きをしたことを思い出す。幼いながら、ちゃんと胸に刻まねばと思っていたのを、覚えている。
 
当時祖父は、仕事を求めて満洲へ渡る。良いところだからと家族を呼び寄せるつもりだったが、祖母は頑に拒んだらしい。もしも、共に満州へ渡っていたら、わたしは生まれていない。帰国した祖父は家族と共に大阪大正区へと移り、砲兵工廠(兵器・弾薬・器材などの製造・修理する陸軍砲兵工廠)で働く。祖母は、借家住まいをしなが小さな息子の子育てと、遠い親戚の世話をして過ごした。1945年、祖父が病死。祖母が38歳のことだった。その後、大阪大空襲で家に焼夷弾が直撃。防空頭巾を被り、近所の人とバケツリレーで消火するも、焼失。何もかも失い、命辛々、息子たちを連れて故郷へ帰り、終戦を迎えた 。
 
戦後は、女手一つで息子4人を育てるため、生活雑貨や食糧を大きなリヤカーに詰んで、早朝から夜遅くまで、かなり遠くまで売り歩いたらしい。貧乏故、合わない靴を履いて長年歩いた祖母の足は、重度の外反母趾だった。手も
節々がゴツゴツとしていた。そんな手に撫でられたり、食べさせてもらいながら、わたしは育ててもらった。働き者の祖母の手足が、わたしの誇りだった。
 
今年も迎えた8月。戦後75年。戦争を知らぬわたしたちができることは何だろうと毎年毎年、心に問う。祖母から聞いた体験と、沖縄に住んでから訪ねた戦跡や体験談を想像して、ちゃんと痛みとして感じたい。
 失ってからでは遅いのだ。今この時が、どれだけ尊いかということ。繋いでいる子らの手に、二度と武器が握られることがないように。爆弾の雨が降り注がないように。
 
 それがわたしたちの責務だ。


終戦の日に。
このエッセーを書くにあたり、祖母の過去なので父母に確認しつつ書きました。
自分の中の記憶と事実とは、多少違いがあり、改めて聞き書きすることの大切さを痛感しました。
同時に、父母の元気なうちに、父母の歴史もちゃんと聞いておかねば…と感じました。
身近な人の人生って、知ってるようで知らないことが多く…しかもそれに興味を持ちはじめる頃には、もう間に合わないことの方が多いのかもしれません。
今回、祖母の戦争体験を伴った過去の歴史の輪郭をくっきりさせることで、自分自身大変勉強になったこと、そして、祖母が終戦を迎えた年齢が、今現在の自身の年齢と近いことなど、様々感じ入ることがありました。

まず、満州に祖母が渡っていたら、わたしはいなかったであろう事実。
そして戦後の混乱の中、女手ひとつで息子4人を育てるなんて、わたしだったら想像もできない…。
どれだけの覚悟や強さで生きてこられたんだろう。

祖母は生前、家族の中でも心身共に、大変強い人でした。
その強さの理由を、今回のエッセーにて垣間見ることができました。
「強くならざるおえなかったのよ」っというのが、母からの言葉です。

戦後…と年数重ねていけることの豊かさは、本当にありがたいことたです。
これからとそうあってほしいですし、そうしていかねばと思います。

戦後生まれが大半を占める世の中の、危うさや怖さ。しかしながら、まだギリギリ、ナマの声を聞ける状態にもある。
もしもこのエッセーを通じて、身近な方の戦争体験を聞いてみよう…などと思っていただけたら嬉しいです。

縄トモコ