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ホンネゲームレビュー15:Last of Us 2~プレーヤーに責任を取らせる非情な作りは作り手側のエゴではないのか?~

※ホンネゲームレビューは私がゲームをプレイして素直に思ったことを他への配慮とかそういうことは考えずに箇条書きしたものです。
いい悪い、よりは好き嫌いのレベルでの話が多いかと思います。

プレイ環境:PS4 PRO
合計プレイ時間:初回ノーマル難易度クリアまでおよそ30時間ほど

よく出来たゲームである。
PS4proの限界を突破したとも思える写実的なビジュアル表現、程よいグラフィックエフェクト、効果的な音響と挿入される曲、必然性に基づくキャラクターの意味づけと配置、物事を捉える時の視点の大事さを訴えるシナリオ。
全体的に見て、歴史に残るゲームなのは間違いない。

ただ、それでもある一点において私はこのゲームを好きにはなれない、というか嫌いだ。
さらに言うとこういうものをユーザーに遊ばせる、作り手の感覚が理解できないし嫌悪さえする。
このゲームが嫌いというより、これを作りこの演出にOKを出した人間が嫌いだと言ってもいい。

※この先ゲーム内のシナリオに触れる部分があるのでプレイ中の方、プレイを予定している方はご自身の責任で読み進めてほしい。
また、前作はアクションがつまらないと感じたため何度かチャレンジしたのちプレイを諦めている。
そのため、シナリオに関してはストーリーまとめ動画で確認しただけなので、前作をやり込み尽くして気に入っている方とは根本的に考え方が違うかもしれないことを記しておく。

なぜ私がこのゲームのことを好きになれないのか、その一点とは一部のプレイアブルな演出のことである。
ゲーム内には操作キャラクターが2人出てくる。
前作で世界を救うキーとなるはずだった少女エリーと、そのエリーの保護者ともいえるジョエルに殺されたワクチン研究者を父に持つアビーだ。
この2人を対比させ、そして実はこの2人のやっていることは全く同じなのだということをプレーヤーに感じさせるのが作り手の狙いだったのではないかと私は考えている。
前作のジョエルとエリーはそのままアビーとレブの関係を映し出している。
2のアビー編のシナリオは1のジョエルの感情を見事に想起させるものだった。
復讐の連鎖も続くかもしれないが、そこから気付き生まれる感情・救済にこそ意味がある、私はそう捉えた。
今までのゲームにはない暴力表現(グロ表現とかそういうことではなく、本質的な負の感情としての暴力)をもって人間の醜さと愛おしさと愚かさを描いたシナリオは素晴らしかったと思う。
ポリコレポリコレ言う前に遊んでみることをお勧めする。

話を戻そう。
そこまでシナリオを評価していながらなぜ一部のプレイアブルな演出が気に入らないのかについてだ。
このゲームにおいて暴力は必須である。
陰鬱なトーンと見るに耐えないような暴力シーンがプレーヤーに突きつけられる。
特に衝撃的だったのはやはりゲーム序盤、アビーによって前作主人公のジョエルがエリーの目の前で抵抗することもできぬまま無残に拷問され、なぶり殺しにされるカットシーンだろう。
これは今作のシナリオ(エリーとアビーの対比、そしてジョエルとアビーの同化)において絶対に外せない展開であったと思う。
しかしその後話は変わってくる。
実はアビーはジョエルに父親を殺されていたのだ。しかも一方的に無抵抗な状態で。
アビーの父はワクチン開発をして世界を救おうとしていた医師である。
脳幹部にある病原体を摘出しワクチンを作るにはエリーの命が犠牲になる。
そのことに悩みながらも手術を決意した父を間近で見ていたアビーの衝撃は想像もできない。
前作ラスト、エリーを救いたいという想いから暴走したジョエルに殺された父を持つアビーによる復讐。
プレーヤーに物事の持つ多面性を訴えてくるシーンの一つである。
このことによりエリーとアビーの対立が始まり、復讐の連鎖が起こる。
その後、アビーに情けをかけられなんとか生き延びたエリーはアビーの仲間(ワシントン解放戦線、WLT)を1人ずつ探し出しアビーの情報を得たうえで殺していく。
この過程にあるのが私の嫌いなプレイアブルな演出である。

エリーの最初の標的となるノラはWLTの医師だ。
菌に耐性のあるエリーは感染し抵抗できないほどに弱ったノラへ暴力の限りを尽くす。
ここでゲームは攻撃ボタンを押すことを強要してくる。(しばらく放置してみたが進まないのでボタン操作必須と思われる、下画像参照)

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私の感覚としては『直接的にジョエルに手を下したわけでもない死にかけのノラにこれ以上暴力を振るうことは無駄で空虚な行為』だと感じた。
どうせ感染しているのだし、殺すにしても銃で頭を撃ちぬけばいい。
なぜ手にした武器で嬲り殺しにするような暴力を、プレーヤーに体験させるのかが理解できなかった。
カットシーンではだめだったのか?
もちろん、キャラに感情移入させる狙いがあるのはわかる。
ただ、この時点でノラに対する暴力に意味がないと感じてしまっているプレーヤーにとってはボタンを押すことは苦痛でしかない。

このように、このゲームでは部分的にプレーヤーに暴力の責任を取らせるような演出が挟まれている。
主に私が不必要だと感じたのは以下の二つ。
・ノラの殺害シーンでのアクション(前述)
・エリーの水族館のシーンでのアリス(犬)殺害シーンのアクション

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以上の二つのアクションはプレーヤーが行わないとゲームが進まないようになっている。(回避方法がある場合教えてください)
ここだけなぜカットシーンではなくプレーヤーに操作を強制したのかがわからない。
もしも、暴力の本質をプレーヤーに体験させるのが目的であればアビーによるジョエル殺害、エリーによるオーウェン、メル(妊婦)の殺害もカットシーンではなくプレーヤーにやらせるべきだったのではないか?
ただ、私はそれには反対である。
今回の暴力シーンは全てカットシーンで処理してよかったのではないかというのが私の感想だ。
犬のアリスにかんしても、エリー編でモブキャラのごとく殺させておいて、アビー編でコミュニケーションをとらせるという嫌らしい演出を入れてくる。
さっき殺した名もなき犬っころは実はアビーたちの大事な仲間だったのだと。
ただ、強制的に自分の手でボタンを押しアリスを殺させられたプレーヤーからしたらもう責任の取りようがないのである。
これは卑怯な演出だと感じた。

エンタメ作品のテーマとして人間の本質や暗部を描くことはよくある。
ノワール作品やサスペンス・ホラー作品に多いと思うが、そのこと自体は大人向けの表現として楽しめる人が受け止めればいいと思う。(私もそういった作品を好む)
ただ、ゲームが映画や小説と根本的に違うのは受けて側が参加することで完成するメディアだということだ。
今回のLast of Us 2の数々の暴力シーンはカットシーンでも充分に伝わる内容だったと、私は考える。
なにより、殺害シーンでアクションをさせることで、プレーヤー自身に罪の責任を否応なしに取らせるような演出・作りになってしまっていることがとても不快に感じた。
映画などの受動的なメディアであれば『そこまでやらなくてもいいのに、そういう判断をするのか』と客観的にみた上で暴力についての意味を自分なりに考えることができる。
しかし、このゲームでは暴力を振るい、結果殺害したのはプレーヤー自身ということになる。
これはあまりに救いのない話だ。
とくに今作はグラフィック・声優の演技などなど総合的にリアリティを追求した作品だけに、その強制的な責任の重さはこれまでのゲームのそれとは比ではない。
プレーヤーが望む望まざるによらず強制的に責任を取らせるような作りは作り手のエゴでしかないのではないか?私はそう感じた。

過去のゲームの例で言えば殺す殺さないをプレーヤーに選択させたり、結果が同じでもカットシーンだけで見せるといったやり方が多かったように思う。

私はゲームというメディアで、プレーヤーに理不尽な責任を取らせることはあってはならないとさえ感じている。
だから私はこの作品をクオリティの面では高く評価するがゲームとしては好きになれない。

私にとってゲームとはどんなに残酷なものであろうが救いのないものであろうが、プレーヤーが納得のいく終わり方をするべきだと感じているからだ。
エンタメには色々な形がある。
楽しいものだけである必要はない、ただ犯してもいない罪を受け手側に強制的に与えるのはやってはいけないことなのではないか、そう思っている。

最後にフォローするわけではないが、それ以外の演出は本当に素晴らしかった。
アビーの筋骨隆々な体躯もラストシーンでの惨めな姿を浮き上がらせるものであったと考えると納得がいく。
また、エリーの鬼神とも思えるような行動にも最後で解決が用意されている。
前作では全く面白さを感じなかった戦闘も今作では程よく調整されていてそこそこに楽しめた。(まだまだアクション&シューターとしてのレベルは低いと思うが)
シナリオ面での満足度が高かっただけにとても残念である。

可能ならノーティドッグの開発の方にお聞きしたい。
なぜあのシーンでプレーヤーに責任を取らせたのかと。

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