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(13)作品と作者は別物か

発言

「曲は好きだけど、歌ってるミュージシャンは別に。」

と言う人がいた。

大学1年目の春のこと。

なんとなく同じ部屋に集まった同学科の人と、好きなアーティストの話題になった。
これから友人を作ろうという時期、互いの手札を探り合う、あの面倒な駆け引きの時間だ。

僕が先攻で、「好みの音楽」山札の無難な手札1枚を出すと、冒頭のセリフが返ってきたのだ。

当時の大学生なら大体知っていそうかつ、ちょっと王道からずらした感じもある、初手に相応しいカードを切ったつもりだった。

あぁ、これは間違えたやつだ。
こいつとは話が合わないと思われた…

悲観的な性格なので、気分を害されたとまで思ったが、話を聞くと、彼は娯楽全般において、そういうスタンスらしい。

続けて、
「俺が好きなのは作品そのものだけで、どんな人が作っているかなんて気にしたことないんだよね。
だから特定のアーティストの曲を集めて聴く必要がない。
偶然耳に入って、琴線に触れた曲だけを集めて、プレイリストを作っている。」
とも言っていた。

へぇ〜そういう人もいるのかと、かなり驚いたのを覚えている。
結局彼とはその後、昼休みや空きコマの時間を過ごす良き友になった。
感覚の違いをうまく言語化して伝え、他人を許容するのが上手な人だった。


一方で、こんな人もいる。

「憧れのミュージシャンと仲良くなって、デートしてみたいなあ〜」

これは、作品をきっかけに、その作り手の人格そのものを好きになるパターンだ。

作品を美しいと思うと同時に、作り手という生き方を美しいと思い、これらの美しさを一括りに、あるいは同一視して捉える。

親愛の気持ちの注ぎ方のバランスもいろいろあり、もはや作品よりも作者に対する興味の方が強いのではないか、という人までいる。

仲良くなりたい。
憧れの存在に自分自身が認知され、何かしらの関係性を築きたい。
もっとこの人のことを知りたい。

この感情は、人間自体への興味そのものに端を発し、その人と自分との交流によってこそ真に満たされるのだろう。


作者が作品の人

アイドルや俳優、タレントの場合は、作り手と作品の距離が近い、というかほぼ同一視される傾向がある。

アイドルは偶像を、俳優やタレントは役を演じることが、絵描きが作品を作ることに相当する。

容姿や話し方はその人の普段からの振る舞い、ひいては「生き方」によるところが大きいため、ファンが作品と作者を同一視するのもうなずけるし、作る側の感覚もそれは同じだろう。

カメラが回っていなくてもずっとコメディアンな人や、舞台を降りてもアイドルのスイッチを切らない人は、自身の生涯まるごとが作品であり、その人にとってはそれが自然な状態なんだと思う。


作品と作者の距離感

作者と作品をどれだけ切り離して捉えているかという感覚を、仮に「作品と作者の距離感」と呼ぶことにする。

少し思い返しただけでも、作品と作者の距離感は人それぞれだ。
上記に当てはまらない、例えば「作者が好きだけど仲良くはなりたくない」という人もいるだろう。

自分の距離感の解釈が、なんとなく他の人にも共感してもらえるだろうと思ってしまうが、こうして見ると、多少の誤差として無視できないほどのギャップがある。

作品・作者・自分(鑑賞者)の三者の距離の感覚は、人によって違う。

文章にしてみるとなんとも当たり前のことだが、実感を伴って理解すると、なかなか面白い事実だと思う。

動物好きにも、好きな動物をペットにしたいという人もいれば、別に触れ合わなくても見ているだけでいいという人もいる。
ネット上で何となく友情を感じているフォロワーがいても、その人とリアルで会いたいとは思わないという人もいる。
同じ対象に好感を持っているという共通点があっても、そこから派生する感情はひとつでは無い。


自分語り

僕もどちらかと言えば、作品と作者は切り離して考えるタイプだ。

しかし、ストライクゾーンが狭くて明確なせいか、好きな傾向の作品を集めているうちに、1人の作り手に行き着くことが多い。
自分から作者の情報を求めずとも、結果的に特定の作者の作品を追っていたことが結構ある。

そして、「ぜんぶこの人の作品だったのか!」と判明するや否や、ようやく作者という人間を意識することになる。
作者の生い立ちや、アイディアの元となった経験、思考プロセス等、作品が生まれるまでの過程が突然気になって調べ、尊敬するに至る。

最終的には、「自分もあの人のように、素敵なものをたくさん生み出せるつくり手になりたい」という憧れになる。

この憧れは「作る側になりたい」という気持ちを出発点にしているのだから、そもそも作りたいと思っていない人とは共有し難い感覚なのかもしれない。


自分が作る側の立場の時はどうか。

僕は絵を描くとき、誰かに何かを伝えるという目的を最初に設定する。
仕事や依頼を受けて描くイラストではもちろん、オリジナルの創作物でも、誰にどんな気持ちになって欲しいかを明確にする。
その方法が唯一の正解とは思っていないが、そうしないと迷走するからやることにしている。

僕は、自分が描きたいものがはっきりイメージできない。
絵を描く行為は好きだが、自己表現のために絵を描くというよりは、絵を描いている時間が好きなのだ。
出来上がった絵は、描く行為によって発生した副産物、くらいの感覚で描いている節がある。
しかし描き続けるうちに、その副産物に価値を持たせたいとも思うようになった。

だから、絵に何らかの機能や目的を持たせることで、僕は描くという行為を正当化している。

僕にとって僕の作品は、僕の体の一部では、ない。

かなり作品-作者距離は遠めという評価になる。

必然的に、作品の向こうにいる鑑賞者の方々を、どこか別の世界にいる人のような、遠い存在として認識している…気がする。

大勢に向かって発表していても、(反応の有無にが関わらず)どこか虚空に向かって話しかけている違和感がある。
似たような理由で、noteの書き方も変えた。
僕は面白ライターにはなれそうにないので、普通に脳内で流れている文体そのままで書くことにした。
読みづらくてごめんね。

この思考の結果を、自分の制作スタンスにどう活かせば良いのか。
結論らしいものは出ない。

自分はどう思われたいかもよく分からない。
それなりに名声を得たいとは思うが、自分には人気者の振る舞いをできる気がしない。

「絵は好きだけど、描いてるイラストレーターは別に。」

そういう人がいてもいい。
純粋に絵を楽しんでくれて嬉しい。

「この人、絵だけじゃなく書いてる文章や価値観もなんかいいな」

そういう人がいたら嬉しい。
何もファンサービスしてあげられないけど。

これからも絵を描いていたら、文を書いていたら、きっと「作品-作者距離感」の感じ方のギャップに悩む時が来るかもしれない。

この記事は、その瞬間が来たときに自分の考えを整理する助けになるかもしれない。

まとまった感が出たので筆を置く。
少し疲れたので眠ろうかな。

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