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(16)名作映画「オトナ帝国」から学ぶ演出

最近、最寄りのTSUTAYAが思いのほか行きやすい場所にあると知り、アニメ映画を借りるのにハマっている。
子供向けアニメ映画は大抵90分前後。
毎晩夕飯時に観るのにちょうど良い尺感だ。

旧作5枚を1週間1100円で借りると、ほぼ毎日映画を見る生活になり、大変QOLが上がる。

前にどこかでも書いたことがあるが、僕はクレヨンしんちゃんが大好きなので、先週はクレしん映画をを5枚借りた。
今回は、その中でも特に感動した『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』について書く。

「オトナ帝国」概要説明とあらすじ

『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』は、名作揃いのクレしん映画の中でもかなり世間の評価が高い作品だ。

感想文やレビューの類は、インターネットにゴロゴロ転がっているため、観たことがなくてもなんとなく内容を知っている人も多いのではないだろうか。

多くの人に褒められまくっている作品の感想を今更僕がしたためたところで世の中には1円の得にもならないが、せっかくなので物を作っている人間の視点からの感想を残しておきたい。

作品のあらすじはこうだ。

※以下、ネタバレ注意!


野原一家の住む春日部に、「20世紀博」というテーマパークができた。
20世紀博は昭和の古き良き時代をテーマにしており、ゲストたちは昔懐かしい特撮ヒーローやアニメキャラに扮して撮影体験をしたり、懐かしのグッズを買ったりと、童心に帰って楽しむことができる。

春日部の大人たちは、この懐かしいテーマパークに夢中になってしまう。
みさえとひろしも例外ではなく、野原家の週末は20世紀博が定番となり、しんのすけとひまわりは嫌気がさしていた。
20世紀博には子供を預ける施設があり、大人たちは我が子をほったらかして遊ぶことができる。
風間くん、マサオくん、ボーちゃん、ネネちゃんの4人も、最近の大人たちの子供のような振る舞いに違和感を感じていたころ…

「20世紀博でお待ちしております」
そろそろ夕飯にしようかという時、リビングのテレビ画面が切り替わり、突然短いテレビCMが流れた。
映像を見た途端に様子がおかしくなるひろしとみさえ。
翌朝、街中から大人が消え去った。

大人たちは、悩みの多い未来よりも、20世紀博に閉じこもって懐かしい過去を生きることを選んだ。
しんのすけ達カスカベ防衛隊は、大人たちを取り戻すために、20世紀博に乗り込むことを決意する。


大人にはキツすぎるテーマ

あらすじからして、大人に沁みるストーリーであることがおわかりいただけるだろう。
子供の頃に観たときは、大人が子供に戻っていく様子に、なんとなく不穏さを感じ取ったくらいだった。
大人は大人なので、こんなふうに子供に戻ってしまうはずがないと、どこかで思っていた。

しかし大人になると、余計にこの怖さがわかる。

大人は頑張って大人らしさを失わないようにしているだけで、本質的には子供の頃と変わっていない。
大人になったからといって、全く別の人間になれる訳では無い。

皆が一斉に正気を失ったら、日常は簡単に崩壊しうるというリアリティがある。

また、映画の中で大人たちが、未来よりも過去に生きたくなった気持ちも、痛いほどよくわかる。

僕も社会人になって、それなりに忙しく過ごし、毎日ちゃんと大人として振る舞い、将来を憂いながら今日を生きることに、エネルギーを使い果たしている。
懐かしい音楽や漫画、アニメばかりを振り返り、流行は受け付け難くなった。
濁流のように押し寄せる情報に押し流されないよう、穏やかな流れの過去に留まるようになった。
新しいものを追わなくなった。
中高生が夢中になっているものの面白さが分からなくなった。

映画を観た大人の多くは、同じような感想を抱くだろう。
子供の付き添いで仕方なく観た親が、はっとさせられたという事が多くの家庭で起こったと予想される。

子供向けアニメで、大人が共感するテーマを扱ったというフックが効いた結果、これほど話題になったのかもしれない。

印象に残った演出

「大人vs子供」なフレームワーク

みさえとひろしが20世紀博のトラックに拉致されるシーン。
大人たちが笑顔でトラックの荷台に乗り込み、ハーメルンの笛吹さながらに連れ去られていく。
トラックの行列の中から両親を見つけたしんのすけは、塀伝いに走りながら必死に呼び止めるが、両親は不気味にニコニコするだけ。

このシーンでは、カメラは画面奥を走るトラックに固定されていて、画面手前の塀が猛スピードで流れており、その上をしんのすけが走る、というフレームワークになっていた。

画面奥の大人たちはトラックの荷台に座って滑らかに水平移動しているので、画面上ではほとんど静止状態。
一方で、しんのすけは障害物を避けながらでこぼこの塀の上を走り、途中何度も躓いてフレームアウトしたり、また加速して追い上げたりと、画面上でせわしなく動いていた。

この意図的な静と動の対比が、大人と子供の対比をより強調していた。
画面作りが上手いなあ…

そうはならんやろ!というお笑い

個人的に、クレしん映画の醍醐味のひとつは、子供たちが悪役モブから逃げるシーンだと思う。
5人並んでよちよち走り、道端の物を利用して隠れたり、壁や柱もチームワークでいとも簡単に登ったりするのが見ていて楽しい。

今作でも、反抗する子供たちを捕獲しようとする大勢の追っ手をかいくぐり、ちょろちょろと逃げていた。
走って、走って、ピンチになると隠れる。
緩急の繰り返しだ。
テンポの良い漫才や落語などでもよく用いられるユーモアの手法に「緊張と緩和」というものがあるが、このシーンも同じテクニックで作られている。

面白いのが、この行ったり来たりの間隔がどんどんスピードアップしていき、隠れ方がテキトーになっていく。
最初はショーウィンドウにうまく紛れていたりしてうまく切り抜けていたのに、後半は道端で組体操するだけだったりと、ボケを畳み掛けてくる。
勢いで押し切ってくる感じが、笑いの根源的な部分をくすぐってくるようで、大人も子供も、万国共通でクスッと来てしまいそうだ。

クレヨンしんちゃんはユーモアのパターンがいろいろなので、たいへんお話作りの勉強になる。

ひろしが靴の臭いで現実を思い出す名シーン

20世紀博は、20世紀独特の「匂い」で満たされており、大人たちは洗脳されて自分を子供だと思い込んでいた。

ひろしも完全に思い出の中から出られなくなってしまい、しんのすけのことがわからない。
「昔の匂いには今の臭いだゾ」と、しんのすけはひろしの靴を奪い取って嗅がせる。
画面がホワイトアウトし、ひろしの人生の回想に入る。

回想シーンは父親(秋田のじーちゃん)の背中から始まる。
幼いひろしは麦わら帽子を被り、自転車の後ろで父親につかまっていた。
場面は音楽とともにセリフなしでつぎつぎと移り変わり、学生時代の思い出や新人時代の仕事、みさえとの出会い、しんのすけが生まれた日などの記憶が押し寄せ、最後は自分がしんのすけを自転車の後ろに乗せるシーンに終わる。
気づくとひろしは大人の姿に戻っていた。

「父ちゃん、オラがわかる?」

しんのすけの呼び掛けに、涙を流しながら頷くひろし。
この数分のシーンで、大人の観客を落としにかかっている。
音楽、絵作り、カットの長さ、、、
ひろしの感情に入り込めるように順繰りにお膳立てされ、しんのすけの呼びかけで一気に感動が爆発するように計算されつくしている。

いわずとしれた有名シーンについて語りすぎるのも野暮だが、何回も観ているのにしっかり感動させられたので、未視聴の方には「とにかくこのシーンを観てくれ」と言いたい。

クライマックスは高いところに登れ

クレしん映画はクライマックスになるとよく高いところに登る。
重力に逆らって頂上を目指すことで、分かりやすい大義が生まれるし、高所の不安定さがスリルを生む。

オトナ帝国でも、20世紀博のパーク内にそびえる東京タワーに登ってクライマックスを迎えた。

20世紀博に大人達を閉じ込めた首謀者、ケンとチャコの2人は、世界中を20世紀の「匂い」で満たそうとしていた。
その装置を発動させるために、2人はタワーの頂上にエレベーターで登っていく。
それを全力で阻止しようとする野原一家。
追っ手を食い止めるために、ここは任せて先に行けと、ひろし、みさえ、ひまわり、シロが1人ずつ減っていき、最後はしんのすけだけになる。

ここでまず凄いと思ったのが、タワーの設定デザインだ。
螺旋上に伸びた通路と階段の中心をエレベーターが貫く形になっている。
エレベーターのカゴはガラス張りなので、ゆっくり登っていくケンとチャコと対照的に、しんのすけはその周りを全力疾走しないと追いつけない。

このタワーのつくりのおかげで、タイムリミットが明確になり、ああ追い抜かされる!とか、もう少し!頑張れ!とか、視聴者はハラハラドキドキさせられるのだ。

もつひとつ、ラストシーンはとにかく作画がすごい。

みんなの想いを背負ったしんのすけは、鉄骨だらけの無機質なタワーを、走る、走る。
アニメの背景は1枚絵で、その手前でキャラクターの絵が動くのが一般的だが、ここでは背景ごとぐるんぐるん動く。
転んだり足を踏み外したり曲がりきれずぶつかっても涙や鼻血が出ても、構わず足を動かし続ける。

作画の線がだんだん線が荒くなり、ラフで力強い線が踊り、のたうちまわるような絵が続く。

これは『走れメロス』だ、と思った。

最近ネットで走れメロスの読書記事を読んで記憶に新しかったのも相まって、メロスが濁流を泳ぎ渡り、セリヌンティウスや妹のためにボロボロになりながら走る姿が、しんのすけと重なった。

アニメ制作ではふつうラフな線は削ぎ落とされるが、あえて汚い線を残して画面に臨場感をもたせる演出、素晴らしい…

食い違っているのに成立している会話

ここまで見て、僕の感動ゲージは既に天井を突き破っており、自分の情緒の種類がわからない状態になっていた。

そしてラストもラスト、しんのすけがタワーを登り切り、その姿に感動した大人たちが、未来に生きることを決意する。
もう「匂い」のパワーは効かなくなっていた。

ケンとチャコは、タワーのてっぺんで負けを認める。
ヘトヘトで立ち上がれない野原家をよそに、少し風に当たって頭を冷やしたいと、柵がない屋上の端に向かう2人。

目まぐるしく変化する時代に疲れ、空っぽな心を埋めるために新しい物を貪る現代人たちに失望し、温かい思い出の中で生きられる世界を作ろうとした。

しかし人々は、未来を生きたいと思った。
俺たちはもうやりきった。しかし失敗した。
この世にもう生きられる場所はない。

ひろしとみさえには、表情から2人が身投げしようとしていることがわかった。
「おい待て!」

「ずるいゾ!!!」
しんのすけも叫ぶ。
逃げるのか。今を生きることを諦めるのか。
そういう意味の「ずるい」と捉えられる。

飛び降りようとした瞬間、タワーの死角になっている部分からハトが飛び出して、2人は思わずのけ反った。
そして飛び降りる気力を失い、へたり込む。

鉄骨の隙間に、ハトの巣があった。
巣では小さなヒナが元気にぴよぴよと声を上げており、親鳥は巣に近づいた2人を遠ざけようと、必死に羽ばたいていた。

ひろしは家族がいたから大人に戻れた。
春日部の大人たちも、家族のために走るしんのすけに胸を打たれ、今に引き戻された。

「また、家族に邪魔をされた」

「ずるいゾ!2人だけバンバンジージャンプしようとするなんて!オラにもやらせて」
しんのすけの「ずるいゾ」は、自殺未遂への糾弾ではなく、バンジージャンプすると思ったからだった。

なんだよ、そういう意味かよと、ケンの表情も少しだけ和らぐ。

「ねえねえ、お股ヒューンってした?」

「ああ」

ケンは夕陽をバックに、少しだけ微笑んでいた。


カッコよすぎる〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!

なんだこのオシャレな会話は!!

ケンの「ああ」の返答には、「全く、こいつには敵わないな」「これだから子供は、家族ってやつは嫌いなんだ」みたいなニュアンスも含まれていたと思う。
ケンとチャコにとっては、しんのすけは忌々しい未来の象徴だ。
その未来そのものの権化に、自分の絶対的な過去への信仰心すら揺らがされた。
自分はもう未来には生きられないが、こいつは未来を面白くしてくれるかもしれない。

そんな複雑な感情の中で、自然にこぼれた「ああ」の2文字が、本当にかっこよくて美しいと思った。

結びに

いやはや、すごく感動したとはいえ書きすぎた。
かなりネタバレが多い感想だったので、オトナ帝国未視聴の方は、粗方どんな映画か想像がついただろう。

しかしそれでも映像を見て欲しい。
見ればわかる。
僕の粗雑な文なんかでは全く表現しきれない感情を理解して貰えると思う。
僕はオトナ帝国を見終わって、感動して泣いてるのかユーモアに笑っているのか、演出力に感服しているのか、自分でもよく分からない泣き笑いが込み上げてきて大変だった。
子供のときに見るのと、思春期に見るのと、20代になってから見るので、全て感想が違ったのも面白い。
5年後に見たらまた違う気づきがあるかもしれない。

とにかく見てくれ〜
感想を語り合おうぜ〜
おしまい

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