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泣きながらでも歩く


実家に放置していた高校の卒アルを持ち帰った。
いい思い出はないし、
連絡取ってる同級生はもう、一人だけ。


ミニマリストというわけではないけれど、
いい思い出を連想しないものを残しておいても、
と思う。残していた理由は、
「卒アルを捨てるなんて人として……」や
「ふつうは捨てるものではない」という、
想像のなかの「だれか」に追随していただけだ。
だいたい、開くことがないから長年実家に放置していたのだ。自分では要らないけど、捨てたことが知れると「何か」は言われるだろうから、
それを回避するために決断せず置いておく人が多いのではなかろうか。自分が死んで、誰かが処分してくれるのを待つだけの卒アル。
わたしには子孫がいないから、
このあと何十年放置したところで、自分で処分するしかない。だったらいつ捨てても同じというものだ。


「捨てる前に一度見ておくか」
とアルバムを開いたものの、
眺めていると
「うん、やっぱ要らん」と思う。


そうしてアルバムを閉じかけたとき、
最後の余白ページの寄せ書きが目に入った。
そんなにじっくり読んだり読み返したことがなかったのだけど、
担任のT先生の言葉が、じわじわと沁みた。


「大人になるにつれて感受性がすり減ったり、
妥協してしまいがち。あなたのその個性は
これから他人に認められるはず。
芸の道は険しく、しんどいことも
これからたくさんあると思いますが、
めげずに努力し続けて下さい」

懐かしいひょろひょろの字


卒業から20年。
卒業式は涙のひとつも出なかったのに、
先生のメッセージに、いま
どうしてか、涙が滲んだ。

ああ、先生はわかってくれてたんだ、
と初めて理解した。
当時18歳だったわたしが、
「誰もわかってはくれない」と
苦しみながら足掻いていたこと。
周りとうまくなじめなくて、浮いていたことも。


「どうせ誰も見てない」
「努力しても認められない」
「世界なんて早く終わればいいのに」


などとやさぐれている
「今」のわたしにとっては
とても、あたたかいものに感じられた。
 

「言葉に意味はない。
言葉に意味があると思うから、
他人から投げられる
辛辣な言葉や稚拙な悪口まで
額面通り受けてしまって
いちいち傷つくんだよ」


最近、そんな言葉を目にした。
それはそれとして、


「意味のある言葉として受け取りたいとき」
は、きっと自分で選んでいいんだと思った。


受け取る言葉と、受け取らない言葉。

わたしはこれまで、すべての言葉を至極丁寧に
「意味づけ」してきて、そのせいで
随分苦しんできた。
「言葉に意味はない」という主張には
本や、詩や、誰かの言葉に感銘を受けた自分を
否定することになる、と拒絶反応が湧いた程。


だけど、そうじゃなくて、

「どの言葉を受けとるか
どの言葉を受け取らないかは
自分で選択して、決めていい」

ということが、ようやく腑に落ちた。


T先生の言葉をわたしは、
ありがたく受け取ることに決めた。

同じページの寄せ書きを眺めると同級生たちからのメッセージは幼く、自我の塊で、
見るに耐えるものだった。
ああ、わたし上履き隠されてたっけ、なんてことも思い出すメッセージまで見つけた。
だけど、
受け取りたくない言葉は、受け取らなくていい。
わたしも、誰かへのメッセージで失礼なことを書いているかもしれないし、
自覚がないだけで、誰かを傷つけたこともあるかもしれない。
だけどみんなそれぞれに、
そのときどきで必死に生きていただけなんだ。


これから先、もしアルバムが見たければ
同じ高校卒の同級生の従兄弟か
やはり同級生の、その妻に頼めばいい。
過去は過去。
「進めよ、前へ」
という誰かの声が聞こえる。

ありがとう、T先生。


険しくてもいい。しんどくても。
泣きながらでも歩く。
もう大丈夫。

わたしの行く先には、ひかりが待っている。


夕方、外に出たら虹🌈が見えた。泣きながら笑った。

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