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五行歌 (2024.2.22)



ホームセンターに行った。
店の入り口に水やりされたばかりの花の苗がひしめき合って、水滴がキラキラと光っていた。
華やかに咲くラナンキュラスの前で立ち止まると
(オネーチャンも咲きなはれや)
とラナンキュラスから言われた。
「アッ……アッ……」
と、某カオナシのようなリアクションになった。
(声で言われたというよりはもっとダイレクトに『伝えられた』感じ)


中学生の頃、
卒業文集のA4の自由ページにたった一行、
「君のために生きる。」
と 書いた。
好きな人がいたわけでも、
誰かに向けてそう書いたわけでもなかった。
そんなひと言を思い出したのはつい最近で、
これまでずっと忘れていた。
文集は確か二十代の頃にぱらぱらと眺めて、
ため息とともに資源ごみに出したうっすらした記憶がある。


「インナーチャイルド」
とはスピリチュアル用語ではなく心理学用語で、「内なる自分」という意味がある。
ネタが古いのだけど、
いつぞやの某サッカー選手が何かの会見で言っていた「リトルホ◯ダ」はまさにそれだろう。


エンパスや奉仕精神の強い人たちは、
自分のことを差し置いて他人を優先しやすい。自分の感情よりも他人の感情に敏感だ。だから自分の感情が次第にわからなくなる。
わたしもそのクチで、
今もまだ自分の感情がほとんどわからない。
子どもの頃からそれが癖になっていて何十年も
ずっと見ようとしてきていないのだから、
幼い頃からずっと
「傷ついてもそれを無いことにされてきたインナーチャイルド」である「リトル自分」は、
もはや自分の本当の感情を
「こちら」に伝えることもしなくなっている。


いわば自分と何十年も喧嘩している状態なのに、
いきなりわたしが、
「今どう思ってる?」
「これからどこに住みたい?」
「どんな仕事したい?」
「ほんとは何がしたい?」
などと突然声を掛けたところで
《へんじがない。ただのしかばねのようだ。》
よろしくシカトされても致し方ない。
インナーチャイルドからしたら
「なんやねん今さら、ふざけんなよ」である。
根雪は深い。春を待ちながらじっくり自分の本音に氣づいて、対話と仲直りを重ねてゆくしかない。



カウンセリングに行き始めてからときどき、
記憶喪失のようにふっ飛んでいた学生の頃の記憶がぶわわっ、と蘇ってくる瞬間がある。
それで一部自己受容が進んだように感じたとき、
「あ、」と思い出したのが先に書いた
「君のために生きる。」だった。



「『君』って、大人になったわたしのことだ」
と、ハッとした。


当時「消えてしまいたい中学生」だった、傷だらけのわたしはそれでも懸命に
「嫌なことはたくさんあるけど大人になったら自由なはずだし、とりあえず生きる」
と決めてくれたのかもしれなかった。


「未来のわたしのために」とは書かず
「君のために」だったのは、
「未来のわたしためにわたしは死ななかったよ、えらいでしょ。あなたは今どうしてるの?」という、わたしにだけわかるメッセージだったのではないか。いつか文集を開いたときの
「大人になったわたし」のために。

「だいたいこんな文集開くような心理状態ってことは、今しんどいんやろ?」という十五歳のわたしの氣遣いまで伝わってきてじわりと涙が出た。さすがは「過去のわたし」である。
(いやごめん、文集は捨てたんやけどな)


わたしも未来のわたしのために生きよう、と思った。「十五歳」から粋なことをされているのだ。
わたしも懸命に今を生きて未来のわたしに襷を繋ごう。今のわたしは過去を思い出してめちゃめちゃ苦しいけど、未来のわたしが楽しく生きてくれるように願うばかり。この先どんな決断をしていても、
今のわたしは未来の「君」の味方だ。


ラナンキュラス。かわいかった☀️


太陽は「いやっわたしは太陽じゃないです。そんなに見ないでくださいッ」と太陽じゃないフリをしない。
隠れられたら地球上の誰もが困るし、
太陽が別の何になろうとしたところでやはり太陽は太陽でしかないわけで、
「他のもの」を目指す必要もまったくない。



「妬まれないように」
「目立たないように」
「地味にふつうに、周りに馴染むように」


そうやって「嫌味を言ってきそうな誰か」に合わせて6割のちからで生きていても、
なぜか目をつけられてしまう「隠れても見つかるほどに強い光」を持つわたしたちは、
自分を過小評価したり輝いていないふりをやめていく必要があるのだろう。
自分の才能を生きることが循環を生み、
調和へとつながるからだ。
「自分じゃない誰か」をやめていくこと。
自分の才能や魅力を自分で認めることが調和への一歩となる。自分で自分をいびって泣かせている場合ではないのだ。


「あたしは花じゃないので💦」
と、いつまでも自分の魅力や才能をごまかしたり何も持ってないことにしていないで、
「自分」を自分で認めよう。
誰の目も思惑も氣にしないで
自分らしく、あるがままにただ咲けばいい。
誰もがそのままでうつくしく、
完璧で完全な存在なのだから。



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