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その道を行こう

易のセッションをしていても、自分自身の問いで卦を立てても、この姿勢がだいじだなとはっきりわかったことがあります。
それは、答えは何の働きかけもないところにふんわり浮かび上がるものではなく、人間的な営みの先にくっきりと浮かび上がるものだということです。

易を占いとして活用する場合、「占い」という言葉が、非現実的で迷信じみたものとしてイメージされてしまうからかもしれませんが、人が迷っていることや悩んでいることに対して、何もしなくても優しく手厚く導いてくれたり、希望をもたせてくれたりするものだと思ってしまっていることがあるような気がします。

他の占術に関しては私から言えることはありませんが、易のことをいうと、その考えで易に触れるとあまりにストレートで容赦ない答えに意表をつかれることになります。

易は、目に見えない領域のものも扱っていますが、易が導く答えは驚くほど現実的です。とても地に足のついた答えをぶつけられるのです。私もよく、「ふわっと許してはくれないよなぁ・・・」なんて思ってしまいます。易が儒学の経典として用いられた理由も、人間的な営みを軽視することがない易の堅実性にあるのかもしれません。

この話をもう少し分かりやすく例えてみます。

全く勉強しない、授業も聞かない、知識も学力も乏しい受験生がいたとします。「私は東大に合格できますか?」と聞くならば、易に聞く以前に、今の時点で受かるわけない、ですよね。

全く働かない、資産もない、人付き合いもない、いつも家に閉じこもって過ごしている人が「私は今年中に3億円のマンションが手に入りますか?」と聞くならば、いや無理っぽいよねということは想像に難くないと思います。

もちろんどちらも可能性はゼロではありません。
何かしらそれに向かって動いてみたら、驚くような嬉しい結果にたどり着くかもしれません。
でもそれは、何かしらそれに向かって動いてみたからこその結果です。

できるだけ先行きの保証がほしいし、行動を起こす前にうまくいくことがわかってから着手できたほうがいい。やってみて失敗するのは恐い。無駄な努力なら最初からしたくない。それは本音だと思います。
でも不思議なことに易は、この人間的にわかりきっている痛いところを必ずと言っていいほど突いてきます。

「あなた、本気でやりたいの?周りの人の目を気にしてやろうとしているだけじゃない?そこをもう一度考えて。」
「いや、今のままじゃ無理だから、まず計画的にしっかり勉強してみて。」
「その道は塞がってるから苦しむことになる。今のままならやらないほうがいいよ。」

なんて、「わかってました、ごめんなさい。」って思わず言いたくなるような、至極真っ当な答えが返ってくることがよくあります。易のセッションのリピーター様になると、「やっぱり、全部ばれちゃってますね。」なんて笑い話にもなったりします。

易経は決断の書とも言われ「はい」か「いいえ」で答えられるような問いに、はっきりと「はい」または「いいえ」を突き付けてきます。

はいの意味は、そこにたどり着く道が通じている。
いいえの意味は、そこにたどり着く道は塞がっている。
ということです。

易が示しているのは、道が通じているか塞がっているかなのですから、その道がいくら通じていても行かなければ答えの場所まではたどり着けないのです。

その道を行くのは、あなた自身です。

「あなたが自ら決めて動いて行く」ということを、易はとても大切にしてくれています。
それは、自分で何かしら働きかけることを置き去りにして、よい結果だけを求めている人にとっては厳しいことかもしれませんが、私はこういうところが易の信頼に値するところでもあると思っています。

「はい」と示された通じているその道。

その道はゆっくり一歩一歩着実に歩むほうがいい。
勢いにまかせて一気に駆けていったほうがいい。
天候が荒れているから今はちょっと待って、スタートの時期を遅らせたほうがいい。
途中で恐ろしい獣がいそうだから、怒らせないように気をつけて行ったほうがいい。
偶然通りかかった車が連れて行ってくれそうだから、出会ったら乗っかってみるといい。
同志を集めて、協力しながら行ったほうがいい。

こんな風に、通じている道をどんなふうに行けば想ったゴールにたどり着けるのか、「はい」か「いいえ」に付け加えて、道の行き方の示唆も与えてくれます。

ヒントを活かしてその道を行くのは、やっぱりあなた自身です。
あなたがそこに居続けて、なんの働きかけも意思表示もしないままで、勝手にゴールはやってきてくれないのです。

私たちは、想像できる次元をはるかに超えた時空の中にポンと置かれ、いったい今どこにいるのか、どこに向かっていけばよいのか、心許無く迷うことがあって当然です。
その時点で居る座標と、そこから目的地までのルートと、その行き方を易は探ります。
あなたが何の働きかけもしていない時点では、その目的地の座標はあまりにも遠くかけ離れ、確認することができません。

でもあそこに行きたい、どうしたら行けるだろうかと働きかければ、それは時空に小さな揺らぎを起こすことになります。考える力、動く力、動かす力を与えられ、私たちはただじっと待っているだけの存在ではなく、自らが与えた時空の揺らぎによって生きる道を無限に生み出せる可能性に満ちています。目的地のポイントが確認可能領域に入ったとき、そのルートは立ち現れます。

だからまず、働きかけてみませんか。
そしてもし、あなたがこれまでたくさんの働きかけをした結果、目的地までの道が既に通じているのなら、勇気の一歩を踏み出してみませんか。

もう一度言いますが、セッションの時に、「この道は通じています」と言っても、私が連れて行くことも目的地を目の前に持ってくることもできません。

あなたが一歩を踏み出し、周りの空気を動かし、時空を揺らし、その道を行くのです。

もちろんやみくもに動くことだけが働きかけることではありません。動かないでいると決めることも、大きな働きかけです。でもそれは、止まるべきタイミングで止まるという時に中る振る舞いでいなければ、せっかく通じている道が塞がってしまいます。

誰かの期待や理想に近づくため、誰かの評価を得るため、自分の不足感を補うためだけの努力なら必要ないかもしれませんが、あなた自身の人生を自分で進み行く努力はしていいんじゃないでしょうか。というよりも、きっと自分の意志で選んで進む道ならば、勝手にがんばって歩みたいって思うんじゃないかな。

クライアント様の問いを読み解かせていただきながら、私はとても貴重な場面に遭遇します。自分の人生は自分で動かすのだと気づき、働きかけたその勇気ある一歩の尊さに、私はいつも心が震えるのです。

自分でやってみた、考えてみた、動かしてみた、それでもこの道でよいのか、どう行けばよいのかわからない。そんな時に易は、厳しくも優しくもあるメッセージで導いてくれると思います。


ある日のセッションの帰り道。
クライアント様に立ち現れた卦のメッセージを、私は頭の中で反芻しながら歩いていました。
するとその卦の番号と同じナンバープレートの車が、私の目の前にピタリと止まったのです。

それは「あなたの道は通じている。その道は、あなた自身の感応に心を開くこと。天地自然のあり方に感応して行くことだよ。」という、時空からのメッセージでした。



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