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1984年以降のオフコース

どうも、ビートたけしさんが好きすぎて「たけし」って名前の人に会ったら相手が素人であっても土下座をするたけし軍団もどきです。

それは冗談でして肝数値高男です。

めちゃくちゃ昔に解散してしまった伝説のバンド「オフコース」でございますが、彼らのキャリアはなんだかんだで20年近くあります。その中でも個人的に1984年のオフコースがめちゃくちゃ好きで、その理由なんかをこれまでのテキストで書かせていただいたのでぜひそちらで。今回のテキストはさすがにマニアックな内容になりすぎちゃっているので今回で最後にしたいと思います。

4人になったオフコースの挑戦はまだまだ終わりません。今度はなんとアメリカ進出の計画を立てるのです。以前からアルバム制作時のエンジニアがアメリカを拠点に活動をされている音楽プロデューサーと言うこともあってか、アメリカにはいくつかパイプがあったのでしょう。実は1983年頃からアメリカでリリースする用に英語歌詞の楽曲を制作していたようで、ある程度形になったところで1985年に「Back Street of Tokyo」というタイトルで、完全英語歌詞のアルバムをリリースしたのでした。

当初はアメリカでの契約が成立したあとで日本でもリリースと考えていたそうですが、アメリカでの契約がなかなか取れず。でもせっかくいいのができたのだから、先に日本で発売してしまおう、ということで発売されたこのアルバムが、めちゃくちゃ素晴らしいアルバムなのです。

しかし残念ながらアメリカとの契約は上手くは行かずに終わってしまいます。アルバムの完成度はかなり高いのですが、これはさすがに時代が早すぎました。1980年代は、まだ日本の音楽が世界に注目されにくい時代だったそうですから。
でも、この挑戦が決して無駄だったわけではなく、ここで繋がった人脈が以降のソロ活動に繋がったりもしたので、彼らのキャリアの中で、ここは必然的に通る道だったのかもしれません。

1986年にはオフコースの活動を1年間休止し、メンバーはそれぞれソロ活動を展開します。いよいよ、バンドが解散した後も1人1人が活動を展開していくために、力をつける期間ってのが本格的に始まってしまいました。小田さんも、清水さんも、松尾さんもソロ名義での一番最初のアルバムがこのタイミングで発売されます。

翌年1987年には再度バンドでの活動を展開。ニューアルバム「as close as possible」をリリースし、アルバムを提げての全国ツアーは相変わらず大盛り上がりでございます。このツアーも日本武道館公演が映像化されているんですけれども、1982年の武道館のステージの雰囲気とはかなり違っており、ロック色もより強くなっておりめちゃくちゃカッコイイのです。
当時はレコーディングのテクノロジーも目まぐるしく変わってきた時代でありますので、あのオフコースもこの時代にもなればシーケンスだったり打ち込みなどを使い始め、サウンドがデジタル化していきます。前作「Back Street of Tokyo」と比べ、これまた雰囲気が違うアルバムが完成しました。

決して小田さんメインで楽曲を制作するのではなく、メンバー全員がそれぞれ持ち歌を制作し、作詞から作曲。演奏はもちろんメインボーカルまで、どんどん創作の幅を広げていき、さらに成熟した楽曲が収録された1988年のアルバム「Still a long way to go」をリリースし、翌年1989年2月に最初で最後になってしまった東京ドーム公演にてバンドは解散してしまいます。
レコードデビューから約20年近くの活動でございましたが、これ以上ないくらいの活動を彼らはバンド時代に行ったのではないでしょうか。今でも再結成を望む声は大きいバンドでありますが、過去の彼らの活動をこうして振り返ったときに、もうこれ以上バンドでやることは何もないのではないかと思います。

こうしてバンドの歴史を見てみると、いろんな事を考えてしまいます。例えば「もしも小田さん・鈴木さんの2人組のままだったら」とか「“さよなら”が大ヒットしなかったら」とか。あるいは「鈴木さんが脱退しなかったら」「アメリカ進出が成功していたら」など、いろいろな事を考えてしまいますが、どんな道を進んでも結局彼らは個々で活動をする運命にあったような気がします。

そうそう、ここで急に自慢話なんですけれども、ここだけの話なんですが、今から10年くらい前にギターの松尾さんに会ったことがあります!!!!と、俺が書いたところで嘘にしか聞こえないでしょうけれども、本当の話です。「アンタの話は信用できないヨ!」って人は、俺が見た夢の話なんだと思って読んでくださいな。

当時、住んでいる地域から近いところで、松尾さんが単独ライブをやるとの話がありました。住んでいる地域に強いつながりを持っていた上司に呼ばれ「肝数値高男は、若い割には渋い音楽好きだったよな?」と聞かれ「自分は渋いつもりはないんですけれども、昔の曲好きですよー」と正直に話すと「オフコースは好きか?」と聞かれ「はい、めちゃくちゃ好きです。」と伝えると、なんと、同じ地域に住んでいる上司の知り合いの方が松尾さんの単独公演の運営に携わっている人で、それの絡みでチケットをいただいたので一緒に観に行かないか?と言われたのです。

まさかの生松尾さんが観られるチャンス到来!心ウキウキで当日会場に行くと、いるではないですか!松尾さんが!!!もちろんコンサートも参加させてもらったんですけれども、最強のラインナップでございました。特に個人的にめちゃくちゃ好きな名曲「ガラスの破片」が聴けたのは今でも忘れられません。
で、さらに忘れられないのが、その後の打ち上げに・・・なんとなんと・・・!一緒に参加させていただいたのでした!!!!
いやー・・・あれはビビった。まさか、松尾さんと一緒に飯を食う時がくるなんて!!!

少しの時間でしたが、松尾さんとお話をすることができました。もちろん俺はめちゃくちゃキモい人なので「The Best Year of My Life」の頃の、楽曲やアルバム制作時の話をあれやこれや聞きました。めちゃくちゃ早口で質問したので、かなり気持ち悪いやつだったのは間違いないんですが、松尾さんは優しい口調で丁寧に答えてくださりました。本当に素敵な方でございました。

その時の話をここでじっくり書きたいところではございますが、そういう話って心の中にそっと閉じ込めておくもので、こういう場所でベラベラと書くものではないような気がするので、本当に申し訳ないんですけれどもキャッツアイさせていただきます。もしも気になって仕方ない人は・・・俺の家に来てください。直接話してあげますよ。

松尾さんの当時の話を聞いて、本人も、そしてオフコースもより好きになったのは言うまでもありません。

と、この文章を読み返してみたんですけれども、どこか嘘くせぇなぁ・・・。嘘だったらどんな話も書けるんだけれどなぁ・・・。一緒に撮影した写真もあるんですけれども、ここに掲載できないのが本当に残念だ・・・!!!
あ、そうそう。1982年の日本武道館公演の DVD のパッケージにサインをもらったんだったんだ!その写真なら公開できますよ。ホレ、どうですか?

松尾さんのサイン、こんな感じなんだ。なんだか松尾さんの私物の DVD を俺がパクったみたいな感じになってしまいましたが、正真正銘俺のモノでございます。でもなぁ〜信じてくれる人少ないんだろうな〜。
なぜか「自慢話」からの「俺は嘘をついていないぜ話」になってしまいましたが、書けば書くほどテキストがしょうもない方向にいってしまっているので、今日のテキストはこの辺で終わりにしましょうか。
最後まで読んでくださった方・・・おそらく0人だと思いますが、ありがとうございました!!!


というところまで書いて文字数が3356文字になりましたので今日はこの辺でオヒラキにしたいと思います。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。明日も元気いっぱいにテキストを更新しますのでその時また会いましょう!!! ・・・俺が逮捕されていなければ。

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