やっと、自分だけの道を選んだ。
私の母は、薬害肝炎の被害者で、私が物心ついた時から入退院を繰り返していました。
幼稚園の頃は、それが「当たり前」だと思っていました。
でも、小学生になると、それが「ふつうと違う」こと、そして「母が天命より早く亡くなってしまうかもしれないこと」に気づいてしまったのです。
7歳ぐらいの頃、それに気づいた時、怖くて眠れなくなってしまい、「パパどうしよう。ママ死んじゃうの?」と父に泣きついた記憶があります。
父は「20年、30年は、ママは大丈夫だよ。その間にパパが絶対治すから」と言ってくれたので、その日は安心して眠ることができました。
それでも、「やはり母は天命より早く死ぬのかもしれない」という恐怖は残り続けました。
そしてそんな母の夢は、私が、母のあこがれの高校、あこがれの大学に入学すること。
私自身は大学入試にあまり乗り気ではなかったのですが。
かなり小さい頃に、「母が生きているうちは、母のために生きる」と決めてしまっていたようなのです。
必死で大学入試に臨み、なんとか東北大学に合格しました。
大学卒業後の身の振り方は、深く考えなかったのですが、大学院に進学して研究者の道へ。
これも、「母が喜んでくれるから」という動機が大きかったと思います。
ただ、研究者の道は、諸々の事情で挫折してしまいました。
母は私が24歳の時に他界してしまったのですが、「大学院を中退する」という選択は、母が亡くなっていたからこそできたのかもしれません。
母に恨み言をいう気は毛頭ありません。何度生まれ変わったとしても、私は母に人生を捧げたでしょう。
それくらい最愛の母でした。
つまりは、それはそれで「自分で選んでよかったこと」です。
でも……文系の大学院を卒業したあと、私に残ったものって……「英語力」だけだったんですよね。
そうすると、英語力「だけ」を武器にできる仕事って、塾講師の類しか思いつかなくって。
ただ、塾講師や家庭教師をしても、私の大学時代とは段違いに「モンスターペアレント」の数が多くなっていたようで……。
英語を教えることはできても、そういう人たち相手にどう対応していいか、温室育ちの私には分かりませんでした。
そして私は、Webライターという道を選びました。
社会的地位は非常に低いです。事情通の人たちには鼻で笑われる職業ですよね。
母が生きていたら何と言うでしょう。
でも、フルリモートの自宅ワークで、イヤな同僚に悩まされることもなく、自分のペースでできる仕事に、私はとても満足しているんです。
お母さん、自慢の娘で居続けられなくて、ごめんね。でも、私は今、幸せだよ。
気に入っていただけたら、サポートしていただけるとありがたいです。もっとあなたに役立つnoteをお届けできるよう頑張ります。