#KimOhNo 騒動の中で感じる嫌悪感について

noteを始めようと思ったら、面白い騒動がありました。キム・カーダシアンがKIMONOの名称で補正下着のブランドを発表し、日米で批判が渦巻いて撤回に追い込まれたのです。日本人ですからある意味当事者ですし、初投稿はこの話題にしようかと思います。

状況

ハフポストは以下のような記事で報じています。

京都市も反対の声をあげました。

私たちは,「KIMONO」「きもの」「着物」の名称は,きものやきもの文化を愛す るすべての人々共有の財産であり,私的に独占すべきものではないと考えます

その後、カーダシアン側が撤回したことに対してもコメントしています。

また、反対署名は以下のようでした。

その名称が日本の伝統衣装である「着物」を想起させることに加え、商標登録の申請を行っているのは我々の誇る文化である着物へのリスペクトに欠けるネーミングと言わざるを得ません。登録された商標に対して、対抗するには商標登録の異議申し立てをしなければなりません。黙っているのではなく、まずは少なくともどれだけの人が反対しているのか、数として見せるところから始めましょう。

世耕経産大臣も反応しました。

ちなみに、キム・カーダシアン側の事情についてもある程度詳しい説明があるのは以下の記事でしょうか。日常的に同様の騒動を起こしている人なのだとわかります。一つだけ読むならこれが一番多角的でわかりやすいかも。

私のモヤモヤ

私は上のような流れについてツイッターで見ていたのですが、見ていて大変モヤモヤしました。というのは、「本当の嫌ポイント」が、「表明している嫌ポイント」とずれているように感じたからです。少なくとも私にとってはずれています。

先に強調しておくと、私は日本人であり、そういう意味では当事者です。日本人が怒ることを批判しているわけではありませんし、キム・カーダシアンのやったことあるいはやろうとしていたことは不適切だったと思います。もちろん、着物は日本の伝統を継承した衣類だと思っています。ただ、その怒りが、とにかく俺は怒っているんだ、ではなく、理論武装していて、それは良いことなのだけど、その理論がしっくりこない。

そこで、何が嫌だったの?ということを考えたい、ということです。先に念押ししますが、キム・カーダシアンの何が悪かったかではありません。私が、何を嫌だと感じたかについてです。

1.商標登録されて独占されるのが嫌なの?

まずここがポイントなのかなと思います。何しろ京都市の声明も、署名活動も、主に商標登録に対して非難しているからです。皆さんはどうですか。

京都市の声明がわかりやすいので再掲すると、

私たちは,「KIMONO」「きもの」「着物」の名称は,きものやきもの文化を愛す るすべての人々共有の財産であり,私的に独占すべきものではないと考えます

ということで、つまり、どういう形であれ、「KIMONO」「きもの」「着物」という名称を独占することが好ましくない、という話になります。これ自体はとても納得できる主張だと思うのですが、いかがでしょうか。

さて、ところで、日本では、「着物」という単語は商標登録されているのでしょうか。商標登録データベースで簡易検索をかけると、85件ヒットしました。

最も古いのは、昭和50年、株式会社やまとの「着物代々」です。その他、アンドウ株式会社の「着物カフェ」や、一般社団法人着物道の「着物道」など。個人的にウケたのが株式会社はかた匠工芸の「着物マン」とか。単なる「着物」はもちろん登録されていませんが、前か後ろに何か言葉をくっつけて登録することは何の問題もないことがわかります。

ですので、これを参考に考えると、日本人の商標感覚としては、キム・カーダシアンも、単なる「KIMONO」ではなく、別の単語をくっつけて呼称するなら瑕疵はないことになります。で、実際、キム・カーダシアンが出願しているのは「KIMONO BODY」だと前出のハフポストの記事には書いてあります。

ならOK・・・ではないですよね。一つには、ブランド名やロゴはKIMONOになっているということもあるのですが、仮に全部を「KIMONO BODY」に揃えたところで許せないと思いませんか?それってつまり、「着物」の商標登録が嫌だという気持ちとはちょっと違うということなのではないでしょうか。

 なぜ「KIMONO BODY」さえ許せないのでしょう?独占という観点からもう少し粘ってみると、「たとえKIMONO BODYであっても、世界の常識としてKIMONO=下着というイメージが定着する可能性があるから」と考えることはできると思います。こうした可能性を支えるのは、「世界的に日本の着物に対する認知度が低いので誤解しうる」とか、「キム・カーダシアンの発信力は本家の着物を凌駕しうる」といった事情があるからでしょうか。うーん、もしかすると本当にそうかもしれないですが、流石にそれは情けなくないですか、日本・・・。特に業界などでそういう誤解が怖い人がいるのは確かだろうとは思うのですが、私は、それに関しては日本の着物がキム・カーダシアンにちゃんと勝ってくれると考えたいというか、結果として残念な事態に至るということについては、あまり心配するようなことではないような気がします。

2.文化の盗用だから嫌なのか?

結果がどうこうではなく、態度として、文化を盗用するということが重要な要素なのだということも考えられます。冒頭のハフポストの記事でも文化の盗用の定義について引用がありましたが、ここでは別の記事も示しておきます。こっちの方が私にはわかりやすかったので。ニュアンスはほぼ同じです。

…モデルなどのセレブが最近、批判されているcultural appropriation(文化の盗用)に関する議論だった。これはdominant culture(優勢で支配的な文化)に属する人びとが、そうではない文化を利用することを意味する。特に、支配的な文化に属する人が、異文化の持つ深い意味を理解せずに利用すると、単なるエキゾティックなファッションやおもちゃのように扱うおそれがある。そのためcultural appropriationは良くないという認識が広まりつつある。

残念ながら日本文化は優勢でも支配的でもないですし、深い理解もないままエキゾチックなファッションやおもちゃのように様々な場面で扱われているのは確かだと思います。先ほどキム・カーダシアンと日本の着物の発信力について比較しましたが、この文脈においては、日本の着物の比較対象はグローバルなアメリカ文化であり、今度は太刀打ち困難ではないでしょうか。

そういう意味で、キム・カーダシアンのこれまでのやり方が文化盗用的であるのは明らかでしょう。今日に始まったことではないんですね。既に書いたように、このあたりの経緯は朝日新聞GLOBEの記事が詳しいです。

キム・カーダシアンさんは以前、コーンロウと呼ばれるビーズの入った編み込みスタイルの髪型をした自身の姿をSNSで披露した際に、「ボー・デレク風の髪型にしてみたの」と投稿し物議を醸した過去があります。キム・カーダシアンが書いたボー・デレクとは白人の女優で、かつて70年代に「10」(テン)という映画の中で、この編みこみスタイルを披露しています。しかし元々この髪型に関しては、それよりも先に多くの黒人がしていたという背景があり、アメリカではこの髪型が「黒人文化」であるという共通認識があります。そのため、もともとは黒人がやっていた髪型を、あたかも上記の白人女優が発祥の髪型であるかのような書き方をしたキム・カーダシアンさんに対してアメリカでは「文化の盗用だ」という声が多くあがりました。
また今年4月にキム・カーダシアンさんは夫と教会に行く際に額に宝石入りのヘッドピースをつけましたが、これはもともとインドの結婚式の際に新婦が額につける伝統的なアクセサリーである(女性は結婚式の際に初めてこのヘッドピースをつけるのが伝統)ため、キム・カーダシアンさんが「ファッション性」のみを重視し、インドの文化に配慮しなかったことに対して批判の声が上がっていました。
この一連の流れを見てみると、今回のKimono騒動に関しても「ファッションやおしゃれには興味があるけど、他の国の文化のことを深く知ろうとしない」姿勢が騒動の原点だといえるでしょう

今回の件に関しても、キム・カーダシアンが着物にあまり興味がなく、さらに、自分の下着ブランドに着物と名付けたらどうなるかの想像力がなかったのは間違いないだろうと思います。はっきり文化の盗用だと思います

でも、そんなことを考えたいわけじゃないんですよ。私は「文化の盗用だから嫌だったのかどうか」については疑問の余地があると感じていて・・・。もしキム・カーダシアンのブランドが限りなく着物に近い衣類のブランドだったらどうだったのでしょうか?あるいは、日本人がデザインしたのだとしたらどうでしょうか?というのは、前掲したチャイナドレスの記事を読んでいたからです。再掲します。

アジア系でない彼女が、アジアの衣装を身に着けていたのはplay dress up(着せ替え遊びをする)ようなものだという批判が多く寄せられた

非アジア系の高校生がチャイナドレスを着ると非難されるんです。その服自体はちゃんとチャイナドレスとみなせるものであったにも関わらず、です。中国文化のルーツを持たないにも関わらずチャイナドレスを着たことが問題なのです。

これはあくまで想像ですが、もしキム・カーダシアンのブランドが限りなく着物に近い衣類のブランドだったとしても、それは文化の盗用・・・それもむしろより悪質な盗用である可能性がありますが、これに対してあまり怒りの感情は湧かないんじゃないかと思うんです。日本好きを自認するアリアナ・グランデが、「Seven Rings」のつもりで「七輪」とタトゥーしたことに対して、日本人が相次いで七輪の正しい意味を教え、結果的にアリアナ・グランデが日本好きをやめるという出来事もありましたが、タトゥーに対して文化盗用だと怒る気持ちには、私はなりませんでした。皆さんはあの時どうでした?

逆に、生まれも育ちも日本である日本人デザイナーが日本で「KIMONO BODY」の名前で下着を発表した場合、それは文化を盗用していることにはならないのではないか、と思うのですが、やっぱり嫌なんじゃないかなあと思います。

そういうわけで、文化の盗用だということ、だからキム・カーダシアンの新ブランドにKIMONOの名称を与えようとしたことは非難に値する、というのは確かだと思うけど、それが原因で嫌なのかというと、それは疑問だなと私の場合は思うわけです。皆さんはどうですか。

3.下着だから嫌なのか?

ここまでの話から考えると、一つの仮説・・・にたどり着きます。それは文化の盗用だの、独占だのは重要なファクターではなく、「下着を着物と呼んでいること」が重要なのではないかという仮説です。いかがでしょうか。

もっとあけすけにいうと、「下着という下等なジャンルに私たちの誇るべき着物が落としこまれることが嫌」というのが正直なところである可能性があると感じるんですが、どうでしょうか。例えばケーキを着物と呼んでもそこまで嫌悪感はないように感じます。ケーキのどこにも着物的要素がなかったとしても。なぜなら、ケーキはラグジュアリー感のあるジャンルだから。それと比べると下着は嫌だと感じてしまいます。あるいは例えば、すごく着物っぽい下着だったらどうですか、それがどんなものか想像はつかないですが。「いくら似ていようとやっぱり下着ではちょっと・・・」って感じそうだなと思いせんか。

私は建前じゃなくて本音の話がしたいんです。

しかしここまで来ると、ポリコレ棒を振り回して気持ちよくなっていたはずのこちら側にも後ろめたさが生じてくるところでもあります。だって「下着は下等なジャンル」という感じ方は控えめに言って不適切じゃないですか。

私たちは常日頃下着というものの地位向上に向けて活動しています。私自身はこれといって活動していませんが、社会としてはその方向性だと思いますし、そうした活動は理解できます。下着については語りにくいという文化は打破したいというのが、リベラルな考え方で、ポリコレ的に正しい考え方だと思います。

困るね。困りますね。これは本当に困る。しかもね、さっきのケーキの例えでわかるように、チョロいんですよ。その辺の上等下等の感じ方が。ミルフィーユ生地を使っていますなどと説明された日には、「おうおう、着物を重ねる様をイメージしているんだね、着物へのリスペクトを感じる」などと言ってしまいそうです。そんなのチョロすぎますよ。そう思いませんか?

でね。この困り感は、私の場合、実は最初っからちらついていた気がするんです。つまり・・・

4.自分の中の「下着は下等」という不適切な意識と向き合うのが嫌

私の場合の結論が出ました。私は、自分の中の「下着は下等」という不適切な意識と向き合わされるのが嫌で、この話題に嫌悪感を感じるんですよ。多分ね。私はそんな高尚な人間じゃないんで、鏡に醜い顔が映ってたら嫌になるんです。ごちゃごちゃ言ってる割に内省的な問題に収斂するのって、村上春樹みたいですけど。

この文脈においては、私はただ私自身に対して怒っているだけです。カーダシアンの瑕疵は、文化盗用などの社会的責任の問題で、集団としての日本人への重大な侮辱ですが、そういうものは私個人の感情とは直接的には無関係なんですね。

終わりに

皆さんが私と同じかどうかはわかりませんが、今まで4つの理由を挙げたので、どれかには当てはまるのではないでしょうか。

私としては、なぜ嫌なのかという主観的な問題を考えることを大切にしたほうがいいと思います。どうやってカーダシアンを批判に値させるかという客観的な問題ではなくて。

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