なつお | Natsuo Watanabe ♿ - 僕を定義するnote

筋ジストロフィー(DMD)とコンビ結成38年目。 これまでと、これからと、そしてなうを…

なつお | Natsuo Watanabe ♿ - 僕を定義するnote

筋ジストロフィー(DMD)とコンビ結成38年目。 これまでと、これからと、そしてなうをできるだけ面白おかしく赤裸々に。 基本フットボールと音楽を愛するヒゲが伸びてるそこそこのおじさん。 from あきた

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もういちどうまれた。

「がんばれがんばれ」「こうしたら楽なんだよね」 真夜中、うすーい意識の遠くから大好きな看護師さんの声が聞こえた。 …ん?ここ、病室じゃないな…自分、飛んでたんだな…そうか、助かったんだな。 事態を理解するまでに時間はかからなかった。 0時を回る前の準夜帯、人工呼吸器を装着していても血中酸素飽和濃度が低下気味で酸素を流し始めていたからだ。 (ちなみに消灯前までは『あー、しんどい』と思いながらサ道を観ていた) ほんの半日前の面会で「最近ちょっと体調イマイチでね~」と漏らしてい

    • あっちの自分、こっちの自分、どっちも同じ自分(高校時代)

      学生時代の話が中学で止まっていたのでそろそろ再開させようと思う。 中学から特別支援校に進みそれまで引っ込みがちだった自分が解放されて、大人に褒められたくて何でもがむしゃらに取り組んでいたので、なんとなく「デキる子」として高等部に迎え入れられた雰囲気があった。 それもそう、上級生にどんなタイプの病気の生徒が多かったのかを考えると(メンツも中学時代とほぼ変わらない訳で)3年間3年生をやるような状況にあったのは確か。 つまりおっかない先輩がいなかったので『自分イキッてるのかなー』

      • 【読んでみた】世界2.0 メタバースの歩き方と創り方

        もう1ヶ月も前の前の話になるが、とあるメタバース交流会に参加した。 その予習にと思って読んだのがこちら。 佐藤航陽「世界2.0 メタバースの歩き方と創り方」 まずメタバースの意味とは、Meta=「超越した」「高次の」とUniverse=「宇宙」を組み合わせた造語で、ネット上の仮想空間のことである。 2021年にFacebookがMetaに社名変更したことも記憶に新しいが、この先の流れを鑑みて「メタの部分のそこんとこ強化してくからね」という意思表明なのであろうう。 どうし

        • 【読んでみた】フリースタイル言語学

          最近読んで面白かった本を紹介したいと思う(書評と言えるほどのものではない) 今回はコチラ。 川原繁人「フリースタイル言語学」 少し前に高野秀行さんの"語学の天才まで1億光年"を読んで、語学・言語学に興味が湧いた流れがあったのでタイトルに惹かれて手に取ってみた。 と言ってもこれから何か新たにどこかの国の言葉を習得しようという情熱がある訳ではないけれど。 ただ気管切開して声を半分失った身として、発声・発語のメカニズムを少しでも知れたらというのはある。 まずタイトル通り見ただ

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          首に穴が増えた話と心に穴が空きそうな話

          書いたつもりでまだ書いてなかったこと。 食道ろう(PTEG)の手術を受ける為に一時転院してきた時の話。 もう一年ちょっと前のことなので記憶を辿っていきたい。 3年前に気管切開の手術を終えた後、必要な栄養を全て口から摂ることが難しくなり、胃ろうの手術を検討することに。 胃ろう(PEG)とは腹部に穴を空けて胃に通したチューブから栄養を流すというもの。 ところが診察の結果、自分の場合は体の変形が激しいので胃ろうを作るのは難しいということに。 そうなると次の手段となるのが食道ろうな

          首に穴が増えた話と心に穴が空きそうな話

          40代を見据えて

          「40歳を目途にこんな風にしたい」とよく漠然と友達と話すことがある。 現在38歳、年が明けてふと『あと2年じゃなくて1年半じゃん…』と気づいてしまった。 一年の真ん中で歳を取るのでW杯のせいで時間軸の感覚が狂った節あり。 それはさておいて、その理想に向けて逆算するともっと焦らないといけないタイミングまで来ている。 最初から『41歳の誕生日前日まではセーフ』なんて逃げ道を作らずに最善を尽くしていたい。 30歳になる数ヶ月前までは両親と同居で在宅生活をしていた。 親子共々まだ若

          自分にとってのフットボール(W杯編②)

          南アフリカW杯のラウンド16でPK戦の末に惜しくも敗れベスト8を逃して 9位に終わった日本。 大会前の期待値から考えると過去最高と言える成績には驚かされた。 同時にさらに上に行くにはまだまだ足りないものがあると実感させられた。 ザッケローニ監督を招聘し、『自分たちがイニシアチブを取るサッカー』を目指してブラジル大会に向けて再始動。 香川真司ら海外でプレーする選手も増え、勢いそのままに2011年のアジアカップでいきなり優勝。 完璧なスタートだった。 2012年のロンドン五輪

          自分にとってのフットボール(W杯編②)

          自分にとってのフットボール(W杯編①)

          カタールW杯が閉幕した。 93年のドーハの悲劇から約30年を経て、因縁の地での日本代表の活躍には本当にエモいものがあった。 思えば日本が初出場した98年のフランス大会、グループリーグでアルゼンチンとクロアチアと対戦していたのも面白い。 カタール大会で優勝したアルゼンチンはメッシがバティストゥータを超えて正真正銘の神となり、日本もあの頃よりも確実に良い戦いをできるようになり、サッカーの進化を感じずにはいられない。 クロアチアも98年3位、2018年準優勝、2022年3位と安

          自分にとってのフットボール(W杯編①)

          自分にとってのフットボール(Jリーグ初期)

          カタールW杯、ブラボー不思議ジャパンで盛り上がってますね。 サッカーを観るようになったきっかけは当然1993年のJリーグ開幕。 当時小3だったが、みんなそれぞれなんとなく好きなチームを選んで帽子をかぶって盛り上がっていた。 野球帽をかぶるヤツがいなくなった瞬間である(姉の代は西武ライオンズだらけだった) 自分が応援することにしたのはヴェルディ川崎でも鹿島アントラーズでもなく横浜マリノスだった。 野球では母親の影響で巨人よりヤクルトが好きだったので、似た流れで読売を避けさせ

          自分にとってのフットボール(Jリーグ初期)

          You Try To Do Your Best(後編)

          入院して数年の間は担当ОT(作業療法士)はいるものの、ナースコールに不具合が起きた時に対応してもらうぐらいしか関わる機会がなかった。 ある年から腕や手の関節可動域の維持の為のリハビリをすることになり、新しい担当が可愛かったので急にやる気を出し始める(笑) 自然と自分のそれまでの試行錯誤の話をするようになると、すごく興味津々に聞いてくれてその先の課題についてもよく理解を示してくれたので、素直に頼ってみようという気持ちに。 基本的にはミニトラックボールのメンテ(分解・掃除・はん

          You Try To Do Your Best(前編)

          パソコンはもはや我々の一部である。 LINEやメールでのやり取り、リモート通話、SNS、買い物、音楽を聞く、動画を配信したり観る、テレビやBDレコーダーをリモコン制御する、ポイ活、資料や作品作りetc… 挙げきれないほど何をするにもパソコンに頼った生活をしているのが現実。 それらを体の残存機能でいかにして快適に操作していくのかが永遠の課題であり、同時に今の方法が難しくなったらどうするかという危機感を常に持っている。 一般的なマウスが使えなくなってから、(在宅で相談できる人

          Hi-STANDARDに殴られた話と黄金の出会い

          15歳の夏の決定的な出来事。 中学生になってラジオを好んで聞くようになり、テレビやヒットチャートに乗るもの以外にも良い音楽が山ほどあるという意識にはなっていた。 それまでHi-STANDARDの存在を知ってはいたが、「なんか英語で歌ってる人たち」という認識でしかなかった。 99年の夏に『MAKING THE ROAD』がリリースされたタイミング、 どこかで曲を耳にして頭をかち割られるかのような電気の走る衝撃を覚え、ようやく気づく。 「これは大変だ!!」とTSUTAYAにアル

          Hi-STANDARDに殴られた話と黄金の出会い

          自分の城を手に入れた話とインタネツトの世界へ

          中2の夏、小学校の時に通っていた学区から引っ越す。 単純に車椅子でも生活できる居住環境が必要になったのが大きい。 通っていた養護学校と将来的に通うことになるであろう病院(今いるとこ)の中間に新築。 父が建築士なのでちゃんとある程度バリアフリー。 当時まだ病状がそこまでではなかったので、大人になってから気づいてしまったこともあるが、とても快適な環境だったのは間違いない。 自分の部屋を手に入れて、ほどなくしてMDラジカセを買ってからだんだんラジオを聞くのがテレビを見るより楽しく

          自分の城を手に入れた話とインタネツトの世界へ

          電動デビューと可愛い後輩たち(中2~3)

          中学生になってからしばらく経って運動機能の低下を実感するようになる。 グラウンドでの運動会で車椅子徒競走させられるのなんかほんともう苦痛でしかなかった。 という訳で、中2で簡易式の電動車椅子(手動車椅子にユニットを取り付ける感じ)を作ることに。 やっと自由を手に入れた僕はもう、楽しくなった。 初めて走行した時の感動は言うまでもなくって感じで、ハシャぎすぎてバッテリー切れを起こす(大体みんなやるやつ) 行動範囲が広がって、自分の意思で行きたい場所に行けて自由に人と話しに行ける

          電動デビューと可愛い後輩たち(中2~3)

          逃げるは恥だが役に立った(中学校へ)

          地元の小学校での6年間を全うした後の進路。 自分の学区にあたる中学校でも設備面を含め前向きに受け入れる姿勢でいてくれていたが、養護学校(特別支援学校)に進むことを決断する。 そこには色んな理由があった。 小学校の仲間もだんだん相手にできなくなるのでは、親に頼りっきりなのを誰かにバカにされたり不良にイジメられるのでは… 何よりも病気がどれぐらい進行するのだろうかと想像すると、3年間を全うできる自信が持てず単純に怖かったのだ(逃げたとも言える) 特別支援学校というと勉強のレベル

          逃げるは恥だが役に立った(中学校へ)

          世界が見たい

          気管切開する前コロナ禍に入る前の自分は週末は実家に帰ったり、ライブやサッカーを観に行ったり、友達に病院に会いに来てもらったり、それなりに潤いのある生活をしていた。 そんな自分なので周りには『病気だってこと忘れてたわ』みたいに言う人間が数多く。 カッコつけていた訳ではないけど、きっといつも元気な自分がパブリックイメージだったように思う。 ただ自分自身もベッドに横たわる姿すら友達には見せたくないという抵抗がかなり強かったのは確か。 オペしてすぐに会いに来てくれた仲の良い、優し