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第11回毎月短歌「連作部門」感想

第十一回「毎月短歌」連作部門のゲスト選者をさせていただきました。
選者と言いつつ、選はわたしには難しかったので、勝手ながら全員分の連作に短い感想を書かせていただいたうえで、それぞれの連作から特に好きな一首を引用させていただきました。

※複数作寄せてくださった方につきましては、恐れ入りますが感想はいずれか一篇のみとさせていただきました。
※掲載順はランダムで、順位などの意図はないです。
※表記はもちろん、改行や字間のアキも投稿していただいた通り忠実に引用したつもりですが、誤りがあれば大変お手数ですがご一報いただけますと幸いです。

わたしの未熟さゆえ、誤読や解釈違い等も多々あるかと思いますが、ひとつの感想としてご容赦いただけますと幸いです。


「侍スタンガン」汐留ライスさま

侍の世界と現代(近未来?)が奇妙に交差する。サーターアンダギーの歌の唐突な共感度の高さに笑わされたり、現実とフィクションの境目の歌で急に真顔になるような主体にドキリとしたりしつつ、いちばん印象に残ったのは二首めと十二首めの八兵衛でした。現実もこうだといいのに、と思ったとき、また八首めが奇妙な存在感で立ち上がってくる。引用は二首めの八兵衛です。

うっかりで地雷を踏んで飛び散った八兵衛に落ちるご隠居の涙


「感情がこぼれているの、」真朱さま

大人になると泣く(ところを見せる)のがどんどん難しくなる。表題歌の区切り方が、まさにこぼれた感情や涙を視覚化しているようで巧みだと思いました。そのあとに続く「だから救って」が本音だろうに、相手にはきっと伝えられていないところが切ないです。引用は一首め。相手にとっての自分を主体がどう捉えているかが生々しく伝わって胸に刺さる一首でした。

「忘れない」信じたふりをしてあげる 雨は降らずに溜まる置き傘


「半年ROMれ」叭居さま

かつての某巨大匿名掲示板を思わせるネットスラングをちりばめつつ、いまのインターネットに対する一抹の反感や寂しさを感じさせる連作。ネットを取り巻く環境の移り変わりだけでなく、かつてより大人になってしまった(ならざるを得なかった)主体の変化も背景に感じさせます。かつては初心者への手厳しい洗礼のように感じられた「半年ROMれ」が、十三首めを読んだあとにはむしろ「半年後には発言権を得る可能性がある」という希望だったかのように感じられるところが面白いです。

一億総コテハン時代に生きていてきっと一生ROMのままだろう


「サクリファイス」古井朔さま

四首という短い連作でありつつ内容は重たくて、自分ではどうにもできないように感じられる自己犠牲と、変えられない過去への問いかけが描かれる。一首めで「私は」と限定されていたのが、二首めでは「私たちみんなみんな」と広がっていて、ここに至る心情の移り変わりを読んでみたいと思いました。分かり合えそうな誰かとの出会いがあったのかな? と思いつつ、四首めの歌からはまだ完全に分かり合えてはいない(欲しいものをもらえていない)感じもあって、この先が気になる連作でした。

「生きて」とか「死なないで」とは言わないでせめて「ここにいていいよ」と言って


「沼ですか?いいえ、ヴェネチアです。」睡密堂(すいみつどう)さま

何らかのコンテンツに深く心酔する様子を表す「沼」を、水の都ヴェネチアと言い換えるセンスが、面白いだけでなく説得力がある。確かに、自分の大好きなコンテンツはきらきらしていて、生きるのに不可欠で、沼というよりきれいな水じゃん(どっちにしろ溺れるけども)! という気持ちになりました。一首めのカエルは、そのコンテンツを布教してくれたお友達でしょうか。止めようもなく何かにハマっていく自分を、妙に冷静に見ているような主体のアンバランスな面白さ、身に覚えがありすぎて共感する連作でした。

ちゃぷちゃぷとつま先ひたすぬるい沼住んだらそこは水都ヴェネチア


「ドライブ」菜々瀬ふくさま

初めは、最初と最後の〈おはよう〉〈おつかれさまでした〉をどちらも「きみ」とのメールやLINEだと思って読んでいたのだけど、もしかしてこれはカーナビの音声かな? と思い直しました。前者の解釈では「きみ(あのひと)との関係性の停滞→ドライブ(話し合い)→関係の継続」、後者の解釈では「車と主体だけで満ち足りた関係性→ドライブ(「きみ」との別れ)→主体と車だけに続く未来」、という異なったストーリーが見えてきます。いつでも乗せてあげられるように車をきれいにして、運転もずっと引き受けて、相手に快適な環境を提供し続けてきた主体が「カフェなんかじゃ話せないこと」は何だったのだろう。別れ話というより、告白してふられてしまったのでしょうか。いずれにせよ、行動を起こした(起こさずにいられない)主体を賞賛したくなるような連作で、そうした主体の姿とタイトルの「ドライブ」のリンクが効いているなぁと感じました。

泣きたくて初めてひとりのサービスエリア エンジンだけは消せないでいる


「水面の月とアマレット」水也さま

雨を通奏低音に、別れなければいけないと思いつつ日々を重ねてきたであろう主体の、きっとそれは今日だろうという微かな確信とぬぐい切れない未練を感じさせる連作。四首めの「あと一度だけ会えたらいいね」にグッときます。さらっと終わりにできるのがドラマ的な大人のカッコ良さかもしれないけれど、現実ではそれだと味気ないというか、カッコよくなりきれないところにほだされたりするものですよね。星、猫、アマレットといった文句なしに美しい舞台装置に隠れつつ、断ち切れないでいる想いを泣きながら吐露するような主体のカッコつけきれなさに惹かれる連作でした。

沈みゆくひととせの声重ねつつあと一度だけ会えたらいいね


「火の鳥」祥さま

大きな生き物、大きな存在、大きな問題、が次々に描かれてゆく。これでもか、と列挙されていく大いなるものたちの陰に、ただ右往左往するだけの(自分を含む)小さなものたちが蠢くのを感じる。かつていたと言われる生き物や幻想の生き物、すでに亡い哲学者に、いまの世界をどう思うのか尋ねてみたくなる連作でした。主体の、ものごとをきちんと見ようとする意志が一貫しているように思います。

殺し合う時代に生まれたこどもたち 拡がってゆく戦場の地図


「蘇州飯店」サルミさま

町中華! 題材からもうわくわくします。カニ玉と酢豚からはじめてスープ、餃子、肉団子、紹興酒、エビチリ、チャーハン、杏仁豆腐とフルコース。結構な量になりそうですが、なんとなく主体ひとりで平らげていそうな気がして、健啖家! と拍手を送りたくなります(もしかしたら視点は一人のものではなく、色んなお客さんや作り手の視点も含まれているのかもしれません)。その一方で「悲しみ」「怒り」「悪いニュースとほのかな報せ」や「死人には口をはさめぬ対決」といった不穏なワードが散りばめられていて、作品に奥行きを与えています。なにがあっても、食べて生きていかなくてはいけない。そうしたパワーと切なさを同時に味わわせてくれるような、魅力的な連作でした。

死人には口をはさめぬ対決の前夜にたのむ正しきチャーハン


「旅するレコード」ツキミサキさま

七首すべてに「レコード」を詠みこんだ意欲作です。その身に音楽を刻み付けたレコードが、流通し、人の手に渡り、空間をつくり、だれかの思い出や創作の糧となり、それが無ければ存在しなかった新たな世界へとつながっていく。収録されている音楽はどれも同じはずなのに、そのレコードが針を落とされる場所の違いによってそれぞれの物語が生まれていく二首めが特に好きでした。空間も時間も超えて続くレコードの旅に心を寄せる主体の発想の豊かさと、そこから生まれた歌を贈りたくなる「君」への溢れる思いが感じられてあたたかい気持ちになります。

レコードに針を落とせばベース音ジャケットさばく音も重なる


「僕らの個人主義」未多来さま

どこか冷めたような視点から、さまざまな恋人たちや、主体にとっての「君」「あなた」を描いていく連作。冷めたような、というものの冷めきっているわけでもなく、むしろ深入りしすぎないように、執着しすぎないようにという自制心を働かせようとしているような印象を受けました。「手放さない為に別れてく二人」「出逢わないことにした恋人達」など、一見矛盾するような描写も、強い信条に基づく行為というよりは傷つくことを避ける二次的な手段であるように感じられます。そうしたなかで四首めでは、無謀にも永遠を誓ったのであろう誰かの姿が描かれていることが印象的でした。主体のこれからの選択が気になります。

最初から正しかったような顔をした薬指を見る六月に4℃


「記憶の町の動物園」佐竹紫円さま

記憶の中の町の動物園をめぐる、あたたかな連作。当時の幼い主体と父の姿が、現在の主体の視点で描かれています。きっと、当時の主体には言語化できなかったであろうさまざまな感情が、現在の主体によって言葉にされることによってごく個人的な映画のように記録されていく。それは、放っておけば風化してしまう記憶を「残す」作業であると同時に、「選択」や「捨象」を含む作業でもあり、そうした避けられない喪失を惜しむ気持ちが、冒頭と最後の「半券」に表れているように感じました。自分の子どものころに思いを馳せたくなる連作です。

どうぶつえん楽しかったね半券を記念に取っておきたかったな


「ヒーリング・ベル」みつき美希さま

耳元で音叉を鳴らしたときの、言葉にできないイメージの世界に没入していくようなあの感覚を思い出しながら拝読しました。言葉から解放されていくような感覚を、歌という言葉で表現するのはとても難しいことのように思うのですが、とくに初めの一首があの感覚をすごく的確に思い起こさせて、音を聴くというのは、すでに自分の内側に潜んでいる神さまからの伝言を、言葉とはちがう方法で受け取ることなのかもしれない、と思いました。疲れているときにゆっくりと読みたくなる、まさにヒーリング・ベルを思わせる作品でした。

深い深い記憶の奥へと遺伝子をくすぐるような神の伝言


「泡になる」みじゅさま

これは個人的な思い出ですが、ディズニーのリトルマーメイドを先に知ったので、アンデルセンの「人魚姫」を読んだときはその悲しい結末に衝撃を受けたことを覚えています。「泡になる」ことは取り返しのつかない自身の喪失であり、それは他者が物語として消費するのとは比べ物にならない切実さで当事者を脅かすことでしょう。主体の置かれた状況は具体的には明かされないものの、主体はそうした恐れを都合よくごまかすような器用なことができず、自身の避けようもない変化とまっすぐに対峙している印象を受けました。

するようにってあたり前に言うけどさあ 失うことの方が怖いよ


「炭酸が飲めない」てんぺんさま

できなかったことが、いつのまにかできるようになっている。食べられなかったものが食べられたり、我慢できなかったことがやりすごせるようになっていたり。とはいえ、そうではないこともあって、主体は炭酸が飲めないままだし、「にくいひと」を本心から許すことはできないことにも気が付く。それでもなんとかして生活を進めていくしかなくて、ごまかすのではなく、自分を責めるのでもなく、できないことも引き連れて淡々と進んでいく。そうした静かに戦う大人たちにそっと寄り添うような連作だと感じました。

猫の呼吸目視で眺めにくいひとぜんいんいなくなってほしいな


「水曜日の動物園」宇井モナミさま

冬の水曜日、ひと気の少ない動物園の様子を描いた連作。どの歌にもそこはかとなく寂しさが漂っていて、それぞれの動物(「俺」含む)のどうやら叶いそうもない夢や願望が綴られます。きっと、ツキノワグマの月は満ちないまま、キリンは星をかじれないまま、縞馬の縞はほどけずサバンナには行けないままで、「俺」には翼が生えないままでしょう。けれど、願うこと・祈ることには意味があると信じたくなる。バクが本当に悪夢を吸いとれるかはわからないけれど、園児を見送るバク(を見る主体)のまなざしには「そうであってほしい」という祈りが込められている。静かで優しい作品でした。

こっそりと悪夢の種を吸いとってバクは園児の列を見送る


「香る緑の行く先」瑞野明青さま

青々とした麦や、潮風、アイス、グレープフルーツなど、爽やかな香りが漂うような連作。まるで自分が風になって、さまざまな初夏のワンシーンを駆け抜けていくような感覚になります。初夏は一年のなかでも過ごしやすくて良い季節という印象ですが、振り返ってみれば梅雨と真夏にはさまれたほんのわずかな期間でしかないのですよね。そうした貴重な場面がぎゅっと集まっていることが、読んでいて心地よい作品でした。

透き通る夏の予感をはらませて どこまでも行けそうな白波


「通勤路」りのんさま

通勤路を行き帰りする主体。「家を買う」という大きな夢や「土曜のランチ」というささやかな目標、「オリオンビール」というちょっとしたごほうびが次々と頭をよぎります。誰に褒められるわけでもなく、人の家のドラえもん(たぶんぬいぐるみ?)や、遠くに見える富士山からささやかな慰めを得つつ、大人としての暮らしを成り立たせていく。おそらく多くの大人が共感するであろうこうした暮らしの機微が描かれていて、わたしもがんばろう、という気持ちにも、わたしたちがんばっているよね、と肩を組みたいような気持ちにもなる連作でした。

たまにしか大人の努力は光らない今日もどこかで断線してる


「ダーリン」はるまきこさま

五首すべての初句が「マイダーリン」で統一された、想いの溢れる連作。なかなか起きなくて、リップを塗ったばかりだとキスをしてくれなくて、どうやら多忙な「ダーリン」。襟足の寝癖に気づかなかったり、ピアス穴をピアッサーではなく画鋲であけたりするところからも、やや大胆な人物像が浮かびます。それでも、主体にとっては「ダーリン」が話せば知らない町も魅力的に聞こえるし、美味しい中華を一緒に食べたいと思える相手であることが伝わります。他の誰かにとっては大勢のうちひとりでしかない相手を「たったひとり」の特別な存在として慈しむ、恋の醍醐味を思い出させてくれるような作品でした。

マイダーリン 起きなきゃリップ塗っちゃうよ、塗ってすぐはキスしてくんないじゃん


「アコースティックマン」短歌パンダさま

詳細な背景までは読み切れないものの、どことなくハードボイルドな主体が、断ち切れずにいる過去を引きずりながらも表舞台に立とうとする、そうした意思表示を続けている様子であるように読みました。いまの主体はもう「二杯目を迷ってばかりいたころ」とは違う。けれど若かりし頃のためらいや祈りをさっぱりと忘れたわけでもない。「強くなるたびに月に恥じてしまう」のは、必ずしも強くなったからではなく、強くなるふりになれただけにすぎないことを自覚しているからなのかな、と思いつつ、そういう強がりもまた大人の色気かもしれないな、と思います。

祈りなど言葉に出したほうが負け 飲み残しにはひとつだけ、泡


「紫陽花の殻」よしなにさま

いまの季節にぴったりの、憂いを帯びた連作。主体はさまざまな紫陽花に自己投影していく。最後の二首が特に切なく、すべては紫陽花の色のように「移ろっていくものばかり」でありながら、枯れた紫陽花のように、色をなくしても決して形を失うことはないのでしょう。なかったことにはできない、という現実を突きつけるようなラストにどきりとさせられます。

思い出はいつか綺麗に枯れますか 雨風に泣く
紫陽花の殻


「月の住人」楼瑠さま

月にまつわる四首。月の存在が、四首それぞれの世界観のなかで(一首めはきらびやかに、二首目は儚くやさしげに、三首めは不思議な魅力で、四首めは届かないものの寂しさとして)際立っています。特に二首目の「白夜月」を「母さん」と重ねる描写が印象的でした。手に届かない場所にありながらどこか身近で、その距離感がゆえにどこにいても見守っていてくれるように感じる「月」のさまざまな側面に気づかせてくれる連作です。

やさしさに照らされるよう白夜月 母さんみたい遠いところで


「こころに吹く風」りんかさま

進むべきではないと頭ではわかっている恋に踏み出しつつ、盲目になりきれずにいる主体。決定的と思える場面を目撃してもなお、立ち止まることができず迷いながらも歩き続けてしまう。何かのせいにしたい、という切ない願望をあらわすような十首めと、それに続く渋谷の描写が印象的でした。ぶつかりそうで、でもぶつからずに歩けてしまう。結局は何かのせいにすることもできず、自分の意思を引き受けて走り出す。最後の一首がエンドロールのように効いていて、主体と「君」のこれからが気になる連作です。

突風がわたしをさらうように吹く 連れていってよこのこころごと


「博愛的反生殖」桜井弓月さま

反出生主義、というひとことだけでは括れない、さまざまな葛藤と深い愛情を感じさせる連作です。ひとつの命を産みだすということは否応なくこの世での戦いを強いることで、そうした苦労を背負わせない為にまず生み出さない、という選択を主体は誇りつつ、最後の一首ではすでに生まれさせられた命に対してあたたかいエールを送ります。幼い子どもたちだけでなく、すでに大人になった人々もまた、誰かの子として生まれてきたのだな、ということを考えさせられました。

生まれさせられたからにはどんな子も幸せであれ幸せであれ


「そして」まちのあきさま

「あなた」に対する愛情が、さまざまな食べ物に重ねて表現されています。主体の想いは、どうやら主体の望む形では叶わなかったようですが、それでも主体は、相手に合わせてかたちを変えつつも、決して自分の想いを無かったことにはしていません。切なくもしたたかで、美味しいものを食べた後のようにパワーが湧いてくる連作でした。

あたらしいかたちをつくるお米から焼きあげましょうやさしいパンを


「きみへ」雨さま

娘さんに対する、深い愛情をまっすぐに歌った連作。親と子は年齢差もあり、一生ずっとそばで守り続けることはなかなか難しい関係ですよね。また、子どもにとって親がどれほど大きな存在になりうるかを、主体もまただれかの子としてよく知っているからこそ、自分が娘さんに対して負の影響を与えてしまったことがないか、我慢させたことがないかという不安が生々しく迫ってくる。そうした葛藤の中で、どうか自分の手を離れても、娘さんが自身の力で人生を切り開いていけるようにと、絶え間なく祈りを捧げ続ける。切なくもあたたかく、親と子のつながりについて考えたくなる作品でした。

倒れないお城はあげれないけれど
きみの住処はきみがみつける


「青春の書架に恋を綴る」燐さま

図書室の本やしおりを媒介にして、「君」に惹かれていく主体の想いが綴られた連作。眼鏡を外した普段と違う姿が恋のきっかけになるところも、本を通して関係を深めていくところも、しおりや本の選択に想いを託していくところも、どれも共感度が高くて忘れていた記憶の箱が次々とふたを開けていくようでした。ラストシーンで、渡した本は受け取ってもらえなかったのか、ひょっとして相手からも本を受け取ったのか……読んだ人がそれぞれの記憶と重ねながらさまざまな物語を広げられそうな、心が青春を取り戻すような作品でした。

蝉時雨 部活の声が 遠く響き 涼しい風が 君の髪揺らす


「セカイケイ」畳川鷺々さま


「セカイ系」と呼ばれるジャンルについてわたしは詳しくないのですが、一時期の流行りかと思いきや根強い人気があり、ひとつの大きなジャンルとして確立しているように感じます。「燃やすぞ」「きらい」「眼鏡をぱきゃり」など、前半はどこか攻撃的に感じられる描写が目立ちますが、七首めを読むと、その攻撃性の背後には自分を取り巻く環境に対する怯えや不安があったのかな、と思いました。最後の二首では、まるで身を守るかのような閉じた世界から抜け出し「みんながみんな」という大きな主語を冷笑的に使いつつも、外に向けて自分を開いていこうとするような前向きな姿勢で作品が締めくくられています。「世界中」に向けて自身を開いていくようになったきっかけとして、「ぼくら」と自称できるような相手が近くにいることがさりげなく明かされていて、タイトルを踏まえるともしかしたら主体が自身のそうした変化をどこか皮肉に感じているのかもしれません。抜け出したように見えてまた新たなセカイ系に飛び込んでいるような、入れ子構造を思わせるスリリングな作品でした。

イヤホンを置いて踊ろう世界中ぼくらのための音楽だらけ

みなさまの大切な作品を読ませてくださり、ありがとうございました。

桐島あお

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