見出し画像

何が正しいまちがってるより、自分が正しいと思えるか

「あのときの選択で、ただしかったのだろうか」

過去を振り返らないほうが良いのは薄々わかっていても、ときどき、過去を振り返ってしまう。

とはいえ、「過去を振り返るな」と自分に言いたいわけではない。

ただ、私が「誤った選択をしたのかもしれない」と思い続けていたのは、栄養士を辞めて自分の生きる道を決めたITベンチャー企業を辞めたことだった。

そのことばかりを思い出して、「正しかったのか、まちがいだったのか」を自分に問う日があった。しかし、答えらしい答えは見つからず、「答えが見つからない」と嘆いていた。


求めていた答えは、外ではなく内に

しかし、最近の気付きとしては、
「自分が答えの見つからない間は、外(自分以外の何か)に答えを求めているからではないか」だった。

きっと私は、過去を振り返ることで、外(自分以外の何か)に答えを求めていた。

無意識のままに、「正しかったと言える要因」を自分以外の"何か"に求めていたのではないだろうか。

「あのときの選択が正しかった」と思いたかった。
過去の出来事を人に話すことで、自分を納得させようとしていたようだった、今思い返すと"そう"見える。

しかし、どれだけ人に話しても、なぜか心の底から「あのときの選択が正しかった」と言えなかった。きっと、心の底からは納得ができていなかった。

なぜなら、
外(自分以外の何か)に「あのときの選択が正しかった」 と言える要因があるわけがなかったからだ。

だから、
自分が「あのときの選択が正しかった」と心の底から思えなかったのだ。

外には、いろんな人の、人それぞれの「正しさ/まちがい」が人の数だけある。
自分以外の基準でしかない。

しかし、自分の内にある"自分の基準"とは.自分のオリジナルであり、自分の中にしかないものだ。

似たような人はいても、自分と完全に一致する人はいない。


他者より、まずは自分を納得させること

なにが良い悪いも、
なにが正しくてまちがってるも、

外にあるのは、他者にとって各々の内にある「正しさ/まちがい」だけだった。
それは、"他者にとっての答え"でしかなく、自分の答えでは決してなかった。

    

だから、私が求める答えは
自分の外には決して存在していなかった。
自分の内にしか存在しないものだった。

過去を振り返ることで、外に答えを求めている時点で、探す場所を間違えていたのだった。

    

こんな経験をして、学んだことがある。

他者に話して他者を納得させるよりも、自分を納得させる事のほうが、何より先決なんだ。

「あのときの選択が正しかった」と思うためには
外に要因を探すよりも、自分の内の声を聴くべきなのだ。

自分が正しいと思うことは、自分にとって正しいし
他者が正しいと思うことは、他者にとって正しい

この概念がやっと腑に落ちたような、腑に落ちる一歩手前のような、そんな日でした。

そして、あの選択以来、素晴らしい小説に出逢えたことも、「あのときの選択が正しかった」と言える要因の一つだな、と最後に思ったので、付け足します。

(日にち過ぎてますが、参加させていただきました)



読んでくれてありがとう、ではまた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?