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人生は短くどうせ直ぐ逝くのだから、余生居たい人と居ることだけ選ぶ

今日、怒りと悲しみを感じた出来事があった。
久しぶりにそんな出来事が起きた。

怒りや悲しみが湧くと、noteを書こうと思うもんだなーと思う。

生きていて、喜怒哀楽は必ずある。
悲しみがあって初めて、喜びが在ると心から実感している。

その分かち合う相手は、自分で選ぶ。
怒りや悲しみを、やたらめったらよく知らない人・今後も繋がってるかなんてわからない/繋がろうと思えない人と分かち合いたいとは到底思えない。

今日は、それを開示するよう求められているような強制された感覚を感じた。本人はそのつもりがなくとも、無意識にやっているんだろうな、という感じ。
大切にしろよと強制されているようなそんな感じがした。
それが私の怒りや悲しみの原因だった。

今後、どんな形でも関係が続いてるだろうと信じられる相手ならば、喜怒哀楽の特に怒りや悲しみを分かち合おうとするのは分かる。
なぜなら、繋がり続けるということは、少なからず自分の今後の人生の局面でその人が出てくることになるということであり、そういう人を大切にするというのは、ひいては自分の人生を大切にすることと同義だからだと思う。
そして、単純にそんな双方に繋がり続ける意志を持てた御縁ある人たちを大切にしたいから。

大切にしたい人は、ちゃんと大切にしたい。
私の思う大切にするやり方は、喜怒哀楽どれも分かち合うことだ。

大切にしたい人の顔は浮かんでいるし、私の人生に必要で居て欲しい人は、もう大枠はわかりきっている。

大切にできる範囲など限られているから、自分にとって重要な人に、その愛情を使いたい。


繋がっていたい人と繋がっていれば、それ以外の人にどう思われてもいい。

理解しておいてほしいに理解してもらえていれば、それ以外の人に理解されなくていい。

それが私だし、在りたい私でいさせてくれる人を大切にしたい。

人生なんて、全然長くなんかないのだし、どうせ死ぬのだから、それに使い古されてる言葉だけど明日死ぬ可能性なんて十分にある。

なのに、使いたくないことに時間なんて使いたくない。

だから、それ以外の人とは触れる機会は作らなくて良いんだと、たった今日思った。

在りたい私でいさせてくれる人のほうが周りに多いのに、そうでない人とわざわざ関わる意味はない。

人間の無駄な本能である、暴力的コミュニケーション(マウントの取り合いなど)や縄張り意識、正しさの主張も、全て余計なものだろうと最近は特に感じる。
そして、それらに自覚のない人のことも感じ取るようになったなぁーと思うので尚更に思った。


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