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【社会現象の解読風味】::女性アイドルグループの「人数」(改

アイドルグループのメンバー数

チームA=18人、チームK=20人、チームB=22人、チーム4=24人、チーム8=40人。これに研究生を含めるとAKB48総員106人。
チームS=15人、チームKII=16人、チームE=19人。研究生を含めてSKE48総員68人。
NMB48は64人、HKT48は60人。いずれも48人よりははるかに多い。さらにSTUは30人、NGTが現状37人。本稿執筆現在の人数である。

バクステ外神田一丁目は27人(ただし2チームに分かれる)、アイドルカレッジは19人、博多のLinQは18人(LinQとして活動するのは11人)、仮面女子は総勢で17名、スーパーガールズが13人。カバーガールズも旧体制の初動は20人だった。かつてのテレビ的アイドルたちがせいぜいデュオやトリオであったことを考えれば、negiccoやperfumeの3人というのは普通に見えるのだが、実際は「少数」派である。それだけいまの女性アイドルグループの人数はインフレ状態だと言われても仕方がない。

学校的世界観

これについては、あちらこちらで書いたり話したりしたことがあるのだが、あらためて考えてみたい。一つはアイドルの多くが「学校」のアナロジーを用いているということにある。その大きな理由は、学校が次のような性質を持っているからである。

・学校という「空間」が日本の近代史(明治〜平成)の中でほぼ一貫して均質な特徴をもっていて変化していない。したがって「学校」は地域を超えて世代を超えて「共通語」として用いることができる。(たとえば学校の教室は奥行き7m×間口9mで片廊下形式の鉄筋コンクリート校舎という標準設計が昭和25年に定められていて、全国均一にこれに沿った校舎が建てられ続けてきたという経緯もある)
・学校という「場所」は、守られた中で共同と競争を繰り返すことができる。挑戦や競争はあっても失敗することが可能だ(いわばセイフティーネットがある)し、競争する相手も基本は同級生同窓生という「友人」。

この「学校」の性質を現場に持ち込むことでアイドルは、安全に挑戦と競争を繰り広げ、共同と友情とで結ばれる空間を構築しやすくなる。またファンもそこで何が行われているかが地域や世代を超えて理解しやすくなる。
さらに中学や高校時代という誰しもが鮮やかな思い出をもつ時代に戻れる気分を味わえるという要素もあわせもつ。

「学校」の持ち込みという現象はアイドルだけではない。日本のアニメ作品をみわたしたとき、設定として学校を用いる作品が大半だと言っていいくらい多いことに気づく。もしかすると日本のサブカルチャーにとって学校空間は一種のサンクチュアリなのではないかと思われるくらいである。

卒業

さらにもう一つ、「学校」という世界観を持ち込むことでアイドルグループが手にしたものが「卒業」というシステムである。このシステムを最初に活用したのがいまや20年を超える歴史を積み重ねてきたモーニング娘。である。逆に言えばアイドルグループとして20年つづいたのは「卒業」というシステムをもったからでもある。

アイドルは常に「挑戦し変化する」存在でもある。なんらかの目標に向かってみんなで努力するその現場にファンと共にある。しかし挑戦し変化する「存在」そのもの、アイドルグループそれ自体は不変でなければならない。モーニング娘。は常にアイドルのトップランナーとして最上のパフォーマンスを求められる。そのためにメンバーは不断の努力をはらい、さまざまな課題に取り組んでゆく。しかし「最上のパフォーマンスのために努力すること」そのものはモーニング娘。らしさ、として不変なのである。
この不変な「らしさ」を追求して行く時、メンバー自身の変化や成長がグループのそれと噛み合わなくなることがある。そんな時に現在のアイドルグループはメンバーを「卒業」させ、またあらたなメンバーと出会う(加入させる)ことができる。そうすることでアイドルグループとしては常にその「変化しないらしさ」に向かって「変化し続ける」ことができる。

こうした学校世界観を醸成/引用するために、多くのアイドルグループは「学校的」な内容の楽曲をレパートリーに持ち、制服をイメージさせるコスチュームに身を包む。クラス編成や部活動や学校行事に相当するイベントを取り入れ、宿題や課題に挑むことも多い。
特に女性アイドルグループは「隣のクラスの女の子たち」とでもいうべき想定でキックオフしたグループも多い。クラスの女子であるから当然のことながら10数人から20数人いることになるし、最初から複数クラスや学年・チーム・グループにわかれて活動していたりもするのである。

多元的自己が推しを増やす

さてもう一つの側面が、アイドルを受け取る側、ファンのアイデンティティの問題である。現代は単一の自我同一性ではなく、複数のコアを持つアイデンティ、多元的自己が増加しているものと思われる。その原因は別稿「国民的に関わるいくつかの考察1」でも書いたが、社会が生産主導型から消費主導型に変化したことが大きいと思う。
生産主導社会では個人のアイデンティティは「どのように生産に関わるか」で決定され、単一かつ一貫しており、きちんと青年期までに確立されていることが適応的である。しかし消費主導社会では、どのような消費を行うかがアイデンティティの基本となる。このため、市場が変化すればアイデンティティ形成の枠組みも変化することとなる。なおかつその枠組みの中では、常に他者との差異化を求められる。しかもこの他者が、社会の複雑化に伴って常時ダイナミックに変動しているのである。よってアイデンティティは固定的にはなりにくく、また可能であれば周囲にどのような他者がいるかという状況に応じて可変的なものである方が適応的であるといえる。

例年、授業に参加する学生対象の調査でも確認しているのだが「状況に応じて出てくる自分が違う」「場面によって自分を使い分ける」と回答する大学1、2年生は年を追って増加している。他の多くの調査と重ねて考えてみても、現代のアイデンティティは「一つ」ではない。
単一のアイデンティティであれば「私は歌手のAさんが好き」「僕はアスリートのBさんが好き」とキャセクションの対象も単一で固定されている方が安定する。しかし多元的で状況的な自己の場合は「このグループならAさんだけどこっちだったらBさん」「昨日はCさんだけど今日はDさんを推したい気持ち」となるほうが逆に自己に素直だということになる。
また消費主導社会の要請で他者との差異化がのぞまれる状況では、同じ「Aさんのファン」同士であっても「二番目に好きな、三番目に好きな」メンバーが異なれば差異化が図れることになる。
かくして「推し(ファンとなる相手)は変えるものではなく増やすもの」ということになる。一人のファンが複数の対象をカセクトするのである。
ファンがそういう状態であるのだから、アイドル側では推されるための多数の対象を用意するのが理にかなっているわけだ。

コストが「好き」につながる

「そんなに多くて覚えられるのか」という批判(?)もたまに聞く。だが実はそのことそのものもアイドルの魅力である。
少人数ならば確かにすぐに名前も顔もプロフィールも、あるいはさまざまな人物像もすぐに覚えられるし把握できる。そうでないことはファンにある程度の情報取得のコストを要求する。どんなメンバーがいてどんな経歴で、どんな特徴を持つのか。その情報を獲得するのに「学習」を要するのである。
ゲームは簡単だとすぐに飽きる。しかしある程度の習熟を要し、またそのシステムの理解に学習が必要な場合に人はゲームに深くハマる。それだけコストをかけた自分は、この状況が好きなのだという認知を喚起する。これはゲーミフィケーションの基本でもある。
アイドルもまた同じなのである。それは鉄道ファンやミリタリーオタク、相撲や野球のファンとて同じことだ。選手やアイテムの名前特徴、スペックといったデータベースを学習して自身の中に構築することがファンであるという意識に繋がる。
また特に女性のファンは、メンバー間の関係性に着目することが多い。誰と誰がどんな関係か、特に仲の良いペアは誰とだれかなどである。この関係性の物語を読み解くのにも、多少のコストを伴う方がより深い参加をうながすことができる。

ただでさえ多数のメンバーが、突然に卒業したり、加入があったり、再編成があったりする。ファンは常にメンバーを追い、そのスペックを学習し、関係性の物語を読み込む。個々のアイドルグループそれ自体はそのための一つのフレームワークになっていると考えても良いだろう。グループのコンセプトにもよるが、メンバーの数が多い方が容易にさまざまな物語を構築できる。データベースの複雑化を図るのも楽だ。メンバーの管理は労力を伴うが、それよりも多くの物語を紡ぐ可能性を優先したい。そういう状況に現在はあるのかもしれない。

とてもぐうたらな社会学者。芸術系大学にいるがこれでも博士(社会学)。