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【社会現象の解読風味】デマと不安と安心と

2020、2月。おそらくそれは「コロナウイルス」という名前と共にかなり長く記憶されることになるのだろう。その月末には、社会学者としてはなんとも腑に落ちないコトバ「善意のデマ」なるコトバが流行している。
善意であろうが悪意であろうが故意ではあるので、デマはデマだろうと僕は思うのだが。

この瞬間に最も問題となっているのは「ティッシュやトイレットペーパーは、現在不足しているマスクと同じ原料であり、中国産がほとんどなので品薄になる」というもの。これは全くの事実誤認であり、たちどころにテレビなどでも否定されているのだが、スーパーでは品切れ。どころかキッチンペーパーや生理用品まで品薄というドラッグストアも出た。
もう一つ、医療従事者を困惑させたのは「新型コロナウイルスは26~27度で死滅する、ウイルス対策にお湯を飲むと効果的」というメッセージがSNSをかけ巡ったこと。少し考えればわかることなのだが、人間の体温は36度ある。もしこれが真実なら体内に入ったところでこのウイルスは死滅することになる。

2007年4月、日本の多くの大学が「はしか」で休講になったことをご記憶だろうか。日本大学の文理学部でも5月に学生44人の感染が確認され、校舎内立入禁止になった。今年すっかり馴染み深い組織となった「国立感染症研究所」の当時の集計では、15歳以上のはしか患者は、2005年に7人、2006年に40人だったのが、2007年4月末130人に達している。これはその後の分析によると「はしか」の流行回数が減少したため、ウイルスへの接触機会がなくなり免疫がなくなった、小児など早期に感染しないため免疫がないまま大人になった人が増えたなどという理由によるものらしい。

この「はしか」の経験がない、ということが実は大きなポイントとなった。つまりこの流行の時の大学生たちは「はしか」がなんなのかをほとんど知らなかった。どんな病気で、どうすると感染るのか・うつらないのか、予防はどうするのか、子供の頃に予防接種をしたのか・しなかったのか。その情報をほとんど持ち合わせていない状況だった。「はしか」という言葉を知ってはいるがその中身がわからない。つまり認知的曖昧さが高い状態にあった。
『電車内に一人でもはしかの人がいると全員感染する』『大講堂の端と端でもうつる』『予防注射の期限は10年でそれを過ぎたら効果がない』などなどの噂があっという間に広まった(もちろんどれも正しくない)。それどころか『バイト先の店長が学生時代にかかって、子供ができない体になった』とか『顔にできものがたくさんできて、人によっては一生残る』などの噂も確認されている。素晴らしい想像力である。

しかし学生たちの間で最もよく広まったのは、例えば『他大学では休校になったのに、うちの大学は、文部省の指導で休講にすると夏休みに補講期間を設けなくてはならず、それを避けるために感染者数を低く報告しているらしい』という類の噂であった。事実4月から5月の連休をはさんで、首都圏でもかなり休校となった大学も多かった。「休みになるのかならないのか」ということは学生にとってかなり大きな関心事でる。この時、はしかは大学生にとって最重要関心事だったと言える。

はしかは病気だから確かに怖い。いやだ。だがこの時の噂を眺めてみると死に直結するようなものはほとんどない。子供ができなくなるとか、顔にブツブツが残るとか、もちろんそれはかなり大変なことではあるが「ただちに命に影響」はない。
その意味では、たとえば「口裂け女」や「トイレの花子さん」とも共通する部分が多い。誰でもが知っている(対象の認知度が高い)ものごとであり、誰しもが関心を寄せる題材であること、どことなく怖い(直接的ではない不安)要素があること、そして噂の中身を「否定できない」曖昧さがある、情報が不足しているということ(認知的曖昧さ)。そんな状況がはしか流行時の大学生にはあったと言える。

口裂け女も、いるわけがないと思いつつも、いたら怖い。だがどういうわけか「口裂け女」がどこまでも追いかけてくるという話は数多く拡散されても「死に至った」という話は一つもないのである。怖い、気持ち悪いという「不安」はあるが、自身の命が失われるという「直接的な不安」はない。そんな状況だからこそ逆を言うと、周囲にその話をしたくなる。コミュニケーションの欲求が生まれる余裕もある。
その余裕の中に、状況の認知的曖昧さをなんとかしたいという動因が入り込む。それがこうした状況で多くの噂などを拡散させてゆく原因となるのであろう。加えて言えば、人間とは物語たい生き物でもある。噂などが物語の形をしていればいるほど拡散しやすくなる。「マクドナルドの肉の中身」「地下鉄の親切なアラブ人」などはその典型例だろう。

これを書いている段階では「新型コロナウイルス」と日本人は、2007年の麻疹ウイルスと大学生の関係にそっくりであるように見える。ウイルスが死んでくれたら嬉しいなと思うから「お湯を飲む」というような噂が流れ、マスクの生産が政府の発表があってもまるで店頭に並ばないという認知的曖昧さから「じゃあティッシュもなくなるのでは」などというウイルス本体とは関係のない分野での憶測になる。なおかつ日々メディアから流れる不安な気分の中にいるのだから、噂が拡散速度を上げる状況は完璧に揃っている。

こんな時には「正しく怖がる」しかない。「わからないのに怖がる」のは最もよろしくない。そのためにはできるだけ「わからない」を少なくすることなのだが、メディアの報道はどうだろう。不安と憎悪ばかりを増幅しているようにみえる。できるだけ人々の日々の基本的な「わからない」を解消するようにしてほしいものだ。政治のゴタゴタや行政の失策は後ほどゆっくりと成敗すればいいのではないだろうか。
ウイルス感染の速度を抑制するのも重要だが、より安心を与えるためには噂拡散の速度も抑制してほしいものだと思う。

とてもぐうたらな社会学者。芸術系大学にいるがこれでも博士(社会学)。