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これを最後だと思いたかった


2020年の7月末〜9月末か10月半ばかは忘れたが
遠く離れたとある病院に転院した

大学病院は長くは居られないため、転院せざるを得なかった
大学病院の主治医やケースワーカーは転院先の病院を探してはくれず、私の父が必死になって見つけてくれて唯一受け入れてくれた病院がこれから書く病院だ

大学病院から救急車で父と妹付き添いのもと運ばれた
都内からかなり遠く離れた病院である

私が入った病室は 認知症のおばあさん達のいる部屋だった
あるおばあさんはお腹を拘束され、何事か喚いたり呟いたりしていた
もう1人のおばあさんは独り言が凄かった

悲しいかな この日は私の誕生日でもあった
父と妹が帰り、私は莫大な不安に襲われた
この病院は圧倒的な医療不足、人員不足だった
看護師とヘルパーのおばさん達に散々苦しめられた
その中に1人若いヘルパーの女の子がいて
その子とは色々胸の内を話せる仲となった
本当に優しい子だった

この時の私の一日は
朝起きて検温、朝食、服薬があり
午前中リハビリ、昼食、午後リハビリ。
その他はヘッドフォンで音楽を聴いたり読書したりして過ごしていた

この病院は 所謂 「姥捨山病院」だった
そこで最後を迎える人のいる病院だった
ヘルパーの患者に対する暴言などを私は何度も聞いた
寝た切りの患者に対して酷い暴言を吐いていたヘルパーのおばさん
私はそのヘルパーから散々意地悪をされ
看護師長に何度も相談した事があった
しかし最後まで改善されなかったが

一刻も早く「ここ」を脱出して日常生活を取り戻す事。
まだまだやりたい事はたくさんある。
両足は不自由で杖をついたり車椅子の生活になるし膀胱にもバルーンが入ったままだが
家族の元へ早く帰りたかった
色々な気持ちが混じり毎日泣いて過ごしていた

「もう これが最後だ」
と自分に何度も言い聞かせていた

そして退院した後
一人暮らしの生活に戻り 訪問介護を受けたり訪問リハビリを受けながら生活をした

それからまた数年後
入院する事になるとは思っていなかった

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