「でーれーガールズ」を読んで

原田マハは感情や光景を彼女の頭から文章に正確に写し取ることに非常に長けている作家だと思う。
歴史やアートを題材にした作品が多いので、青春小説を読んだことはなかったが、高校生の青春という何事にも代え難い期間を表現するのも本当に上手だなと思った。
この物語の中で、作者は「大人にならなければいけない少女たち」と「大人になったけど変わらない少女たち」を交錯させながら、彼女たちの友情を描いている。
その二者を一番うまく表現しているのが、以下の2つの場面だ。
ひとつめは、鮎子が白鷺女子高校での講演の前に、鶴見橋で見かけた女の子と別れる場面。

“女の子は笑顔になって、「ほんじゃ、うち、行くけえ」と言った。
「わかった。じゃあ、私も」
「ついてこんでよ。うち、ひとりで行くんじゃけえ」
「それはこっちのセリフよ。私だってひとりで行くんだからね」
「わかっとるって。じゃあね」“
(Kindle の位置No.2142-2144).

もうひとつは、武美と鮎子が卒業前、同じ鶴見橋で別れる場面。
“「ついてこんでよ。うち、ひとりで行くんじゃけえ」 ひとりで、と言われて、鼻の奥が急 につんとなった。涙がこみ上げる。気づかれたくなくて、私も思い切り元気 よく 返し た。 「それはこっちのセリフよ。私だってひとりで行くんだからね」”
(Kindle の位置No.2433-2435)

一つ目の場面は、武美が亡くなってしまう直前に、鮎子と武美が高校生の時にした会話と同じ会話を、女の子と鮎子がしている。二つ目場面は、鮎子が武美との思い出の回想中に出てくる会話だ。一つ目の会話の後に鮎子がシラサギの事務局から電話を受けた際に女の子との会話に既視感を覚えるのだが、ここでその伏線回収が行われるのだ。一番大切な親友と過ごした中で一番大切な瞬間。
物語の他の場面でもそうだが、この鶴見橋を始め、高校3年間だけ鮎子が住んでいたこの街は、鮎子の記憶の中では高校時代のきらきらした思い出がたくさん詰まっている。どんきほーてや市電、鮎子が淳くんに会ったあの地下道も。
その苦くて甘くてすっぱい想い出を振り返りつつ、なくなってしまったものと、まだ存在しているものに思い出を馳せていく。

この話がこんなにベタなストーリーでわかりやすいのに、こんなにも読みやすく、読む人の心にすっと入ってくるのは、岡山ではなくてもみんな高校時代を過ごした地元があって、その人たちとすごした期間はどんな形であってもこの上なくきらきらしていて、そしてきらきらしていたこと自体に気づいていなかった、自分自身に重ね合わせてしまうのかもしれない。

私は千葉県の公立高校に通っていたので、平成末期の頃でもいまだに暖房器具はストーブで、エアコンは夏しか使わせてもらえなかった。高校の友達と部活帰りに延々と喋り続けた駅前は、少し見晴らしがよくなってしまって。今隣に座っている気になるあの子の話をするのにちょうどよかったあの薄暗さはもうなくて。それでもそこに面影は残しているから、友達と一緒に行ってみようよと言って、なんだか懐かしい気持ちになったりするのだ。

そんなことを卒業してから10年も経っていない今してしまっているのだから、きっと20年後も30年後も、鮎子と武美と同じように、船橋に帰って同じことをしてしまうのだろう。

“そう。あの頃、私たちは誰もが光の中にいた。”(Kindle の位置No.547-548)

鮎子は回想の中でこう述べているが、私たちは案外、今生きているこの瞬間も光の中にいて、10年後20年後思い返してみれば今が「光の中」だったことに気づくのかもしれない。そんな思い出を大事にするために、大学生残り半年、精一杯甘くて苦くて酸っぱい体験をたくさんしたいなと思った。

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