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選択と哲学、少しの逡巡

 父が入院した。
 正直、もうわたしががんになったのだから勘弁してくれよという気持ちはある。勿論、父ががんになることとわたしのがんに関連性などないしがん種も異なるのだが、心情的にそう思ってしまう。
 ──口には出さないが。

 一般向け資料から診療ガイドラインに至るまで、わたしは予めざっと目を通していた。ざっと、というのはあっさりしているようだが、選択の主体があくまでも本人にあるからだ。

 だがやはり正しい情報を読み込んでいるかどうかは、頷きなど立ち居振る舞いのちょっとしたところにあらわれてしまうのかもしれない。医師が術前の重要な説明に際して、立ち合う家族にわたしを指名したとき、なんとなくそれを察した。
 また同業者か何かと思われているのか、それとも家族歴で「がん」があるのはわたしだからか。いずれにしても、多分そういうことだろう。
 
 そこそこ大きい病気にかかると、治療に幾つかの選択肢とそれぞれベネフィット/リスクがあり、それらから先々を見据えて選んでいかなければいけない。しかも、日常から見たら短期間にかなりの速さで。
 わたしはデータ偏重だが、心情を重んじる人もいる。その選択は、最終的にはある意味生き方で哲学なんだなあと思う。

 Twitterのタイムラインには、朗らかに生きるためのライフハックとして「起こってもいないことを考えない」が頻回に流れてくる。
 これはおそらく予期不安について平易に言及しているのだろうと思うが、一方で平時から学びつつ予測して戦略を考えることもまた大事だとは思う。そういうことをしなければならない局面はかならずあるはずだから。
 父にとっては、その説明がまさにそうだった。

 通常選択されるガイドラインの推奨から少し外れたその提案は、既に身体にダメージを負った状態でのリスクを考えていただいた上でのものだ。
 ただし、その提案では別のリスクが残ってしまう。術式により想定される後遺症を回避するのか、長期的に再発の可能性を下げるのか。
 つまりは、どのリスクをとるのかということ。それぞれの確率、なかなかに重い。

 どうしますか、ご質問はありますか。その言葉に対してわたしが、より詳細でヘビーな何かを返すこともできた。だが、あえてそうはしなかった。
 本人がああもはっきりと意志を示しているのに、わたしが混ぜ返すのはどうか。説明は丁寧だった。余計な不安を背負わせたくもない。
 より深い知識を持っているからといって、場の主はわたしではない。わたしのときにそうだったように、選択の主体はやはり患者本人にある。

 考えたくはないものだが、選択の結果がもしもよくない方に転がったとして、わたしはその沈黙を悔いるかもしれない。そんなことはわかっていた。
 わかっていてなお、いちサバイバーとして尊重すべきことはある。逡巡はいまも残る。すべてがうまくいくように祈るしかない。いまはただ。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」