飲食恋愛小説集2「おいしい水」vol3(最終回)桜吹雪としょうが焼きにけんちん汁 #cakesコンテスト
お台場の試食会の翌週に、恵美がキャバクラを辞めたことを三上から聞いた。
「妹さんの容態が悪化して、田舎に帰ったらしい。命に別状はないけど、妹さんの看病をしたいからと、店を辞めたんだ」
また恵美というのは源氏名だということも知らされたが、義昭の心の中では、昔付き合っていた「恵美」という年上の女性と、今でも同じ名であることに変わりはない。
恵美と同じ名前の女が、「ダイエットに効く水」を売っていた。エステ業界に入る前だ。
28歳の義昭は12歳年上の女に誘われて、引っ越したばかりの女の部屋に入った。部屋には裸電球が一つだけ灯っている。子供の頃の極貧生活を思い出した。
女は照明灯を壊したと言い訳をし、裸電球の光の下で女はダンボールいっぱいのダイエットに効くという水を義昭に見せてから、畳の部屋で、義昭を求めた。裸電球の下で女は淫らな水を流し続け、貪欲に義昭をむさぼった。半開きの唇と、鵺(ぬえ)のような一重まぶた。女の欲望が強すぎて、水は溢れてばかりだった――。
貪欲な年上の女と、妹の結婚式のために白い車いすを用意したいというけなげな恵美は、まるで正反対だ。だが逢えないとわかると、あの馬のように濡れた目がたまらなく懐かしかった。
月末最後の夜に帰宅すると、鍵がかかっていた。妻はまだ帰宅していないのだろうか。家に入ると、ひっそりと静まり返っている。何かが違っていた。あわてて妻の名前を呼びながら階段を駆け上がり、妻の部屋をノックするが、ことりともしない。ドアに鍵がかかっていなかったので、「入るよ」とドアを開けると、妻の姿はなかった。とっさにクローゼットを開けてみると、ドレスもコートも、ワンピースもセーターもブラウスも、何もかも消えていた。
クローゼットの中に妻の残り香が漂っていた。最近香水を替えたらしい。替えたのは香水だけでなく、愛情も洋服と一緒に、別の場所にワープしてしまったのか。
がっくりと気落ちすると、たまらなく喉が渇いた。階下に降りて、キッチンにある冷蔵庫を開けた時だった。
「うわーーー」
悲鳴を上げながら後ずさりする。冷蔵庫の中は、上段から下段まで、納豆がびっちり埋まっている。
冷蔵庫から、はらりとメモ書きの紙が落ちた。
「極貧時代を思い出すからという理由で納豆嫌いのあなたに付き合うのも終わり。なか卯の朝定で大好きな納豆の一人飯も、さようなら」
すぐに金庫を開けると、妻のサインと押印入りの離婚届が入っていた。がっくりとうなだれると、メールを告げる着信が鳴った。妻の弁護士からだった。
桜が芽吹くころ、義昭は一人では広すぎる家を売却しなければならないと思い始めた。妻の離婚への決意は固かった。だが他の男の存在を感じていても、納豆を好きになれと言われても、妻と別れる気にどうしてもなれなかった。
未練という言葉で済まされるものではなかった。金融業界からエステ業界に進出してきた義昭を、誰よりも知っていたのは妻だった。人を蹴落としてのし上がり、利用することなど当たり前だった。嫌われようが恨まれようが、上昇していくことだけしか、見えなかった。例え世界中の人間に嫌われようとも、妻だけが理解してくれればよかったのだ。たった一人の味方が側にいてくれるだけで、義昭は満足していた。小さい頃の極貧を二度と味わいたくなかったことももちろんだが、上昇していくうちに、達成感が喜びとなった。自分の能力が認められると、人間として成長していくような気がして、自信にもつながった。力がみなぎってきて、会社をどんどん大きくさせた。それも妻が見ていてくれると信じていたからだ。
不協和音が鳴り始めたのは、妻が自分で医療サービスの会社を経営してからだ。子供にも恵まれなかったことで、妻は妻なりに生きがいを見出したかったのだろう。義昭は妻をサポートしようとした。だが、結果は、“永遠の他人”に戻ってしまった。
ふと、あの雪が残っていた公園での恵美を思い出す。
「恐怖は抑えると繰り返しやってくるの」
恵美は悪夢を見ることによって、心の中の恐怖を表に出して、恐怖という感情から自分を解き放ってあげた。
俺は、極貧生活に加えて、愛する妻を失ってしまったことから、愛情喪失の恐怖を味わった。この恐怖を解き放つのは、どうしたらいいのだろう。恵美がその答えを知っているかもしれない。
だが、恵美はいない。
義昭の心にぽっかりと空いた穴に、すきま風がどんどん侵入した。春の気配から、遠ざかっていた。
「久しぶりに飲もう」
離婚の手続きが終わった頃に、まるでタイミングを見は構ったように、三上から誘われた。
指定のカウンターバーに到着すると、既に三上が飲んでいた。いつになく沈みがちだったが、モルトウィスキーをストレートで立て続けに飲む。
「離婚してから、新しい女ができたのか」
かなり酔っている三上を、無視できなかった。今夜の三上は、義昭に絡みたいほど悩みを抱えていることがわかった。
「いや、いないよ」
「そうか。男って、哀しいよな」
義昭は無言でモルトウィスキーをシングルの水割りで頼んだ。
「20代の性欲が戻ったとしても、肉体は確実に衰えている。時間は女にも男にも残酷だ。でも、年を取るのもわるくないよな」
口をはさむ隙もないほど、三上の饒舌が続く。
「性欲が盛んだった20代の頃は、心が置き去りにされた。女を喜ばせることが、自分の喜びと重なったのは、30歳を越えてからだ。酒と女。飲むことや行為そのものだけが楽しかった時期があったね」
「三上、何かあったのか」
「性愛も酒と同じだ。女に何をしてあげられるのかが重要だ」
「三上、ひょっとしたら、好きな女のことで、悩んでいるのか」
三上の目が潤んでいるように見えた。
「やっぱり、そのことで悩んでいたのか」
「既婚者が永遠に恋をしないと誓っても、心は正直だ。大人の男として対処しようともがけばもがくほど、心は厄介な存在だとわかるだけさ。でも、いつかは終わるよ。京極は自由になった。これからだよ」
同窓生が自嘲しながら、慰めてくれるとは。お互いに年を取ったなと、義昭はモルトウィスキーを飲み干した。
庭の満開の桜が、朝の光の中で風に揺れていた。
二週間前の夜に、三上からもらったメモを握っている。恵美の住所だった。キャバクラの女の子から聞き出したのだという。
「言っておくけど、オレは恵美と何の関係もないからな。ただ、紹介したのは、オレだ。京極が気に入っているなら、逢いに行くべきだよ。もう独身だしな。自由が羨ましいよ」
だが恵美との再会に関して、義昭は随分悩んだ。だが、家を売却することが急に決まってから、義昭はたまらなく恵美に会いたくなった。不動産業者が書類を持って帰ってから、住所を手掛かりに、行ってみる気になった。
「ひょっとして、オレはストーカーなんだろうか」
自問自答してみるが、足は勝手に、恵美の住まいに向かっていた。
ところが、マンションの前で、義昭は躊躇した。訪ねていいものかどうか、迷惑ではないか、ストーカーだと怖がられたら、どうしようか。
マンションの前にある満開の桜が、風に揺れた。はらはらっと、桜の花びらが舞い散る。義昭はアイフォーンで桜を撮影して、恵美に写メールしてみようと思った。
「元気で帰ってきたかな。長い間、君に聴きたいことがあった。冬の公園で、君は『恐怖は抑えると繰り返しやってくるの』と言った。君は悪夢を見ることによって、病気の恐怖を取りはらった。すごいことだよ。でも僕はーー僕は、妻と別れて、愛情を喪失する怖さを抱えている。どうしたらいいのだろう。 聞いてばかりだと悪いから、僕にできることを言って欲しい。君とは違う世界の人間じゃないよ。だって、僕だって、君が感激したしょうが焼きもけんちん汁も大好きだから」
支離滅裂な文面だ。だが、これが今のオレの正直な気持ちだ。
メールを送ってから、ほっと溜息をつくと、添付した桜の写真より、もっと上手に撮影した写真を添えるべきだったのではないかと後悔した。
それならともう一度撮影を試みて、アイフォーンを桜に向けた時だった。マンションの5階の中央の部屋の窓が開いて、人影が浮かび上がった。恵美かもしれない。
「恵美~」
大声で名前を呼び、手を振った。人影がベランダに進み、動揺しているように左右に揺れた。やっぱり恵美だ。
エレベーターに向かって全速力で走った。だが12階で止まっていた。そこで非常階段から5階へと駆け上がる。女のために何かするというのは、口先だけではダメだ。男として覚悟するのだ。一段一段と昇りながら、義昭は心を決意しようとしていた。
息を弾ませて、5階まで駆け上がった。中央の部屋のドアが少し開き、恵美の顔が見えた。喉が無性に渇いていた。
「京極さん。メールを読みました。聞きたいのね。愛情が喪失してしまった恐怖を、解き放つ方法を」
馬のように濡れた瞳が、まっすぐに義昭を見ていた。
「絶望するの。そしてそれをそのまま受け入れるの。そうしたら、また新しい希望が生まれるわ」
一陣の風が、桜の樹を揺り動かした。桜吹雪の中で、恵美が微笑んだ。
「今けんちん汁を作っているところなの。一緒に食べる?」
夢中で頷きながら、義昭は喉が渇いていることを思い出した。非常階段を遠足力で駆け上がったのは、数年ぶりだったから。
(完)
・飲食恋愛小説集2「おいしい水」vol1(全3)モルトウィスキーにボサノバ https://note.mu/natsume_kaworu/n/nd9658c0a76bd
・飲食恋愛小説集2「おいしい水」vol2 「白い車いすとフォアグラテリーヌオペラ仕立ての夜」https://note.mu/natsume_kaworu/n/na4bfd45b5b54
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