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番外編 中国黄土高原の子どもたち その2

2006年から10年間くらい書いていたブログを、ほんとうに久しぶりに読みかえして、あの頃はインターネットを繋ぐのがいかに大変なことだったのか思い起こしました。当初は村では繋ぐことができず、山道を往復2時間歩いて下の炭鉱町まで行き、時には、泊りがけで離石という町まで行って、シャワーも浴び、いろいろ買い物をして、リュック担いで、買い物かごとパソコン下げて、山道をヒーヒー喘ぎながら帰って来たのを思い出しました。あの頃は私もまだまだ若かったんですね。

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こんな子どもたち、私たちの世代だとなつかしいですね。坊主頭って、今時なかなか見られないです。

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三交という、臨県では2番目に大きな町。後方の山の上にあるのは、かつて日本軍が造ったトーチカです。

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これは、新年に子どもたちが中心になって、ろうそくを持って村の廟までお詣りに行く行事。村を出た若い人たちがいっせいに帰郷するときです。

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小麦粉で作った新年のお供え。日本の小鏡餅のように、竈や鴨居や窓辺などいろんなところに飾ります。

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食事は一日2食、すべてどんぶり飯(ほとんどが麺の上におかずをのせる、たまにご飯だとごちそう)で、おかずを小皿に盛るという習慣はありません。何皿も出るのは、冠婚葬祭とお正月。子ども用の食器などもありません。

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これは結婚式で、お嫁さんの顔を見てあれこれ評価しているところ。右下の赤い棒の先に輿(映画、赤いコーリャンに出てくる)があって、お嫁さんが座っています。女の子はやっぱりおしゃまですね。

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口にしているのは、干した棗。

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村で晋劇があったときで、おじいちゃんにお金をもらいました。圧歳銭という、新年のお年玉の習慣もあって、やっぱり子どもは金持ちになります。私はこの圧歳銭というのを一度もあげたことはありませんでした。もしひとりにでもあげれば、噂を聞きつけて、あちこちの村から大挙してやって来て、私が破産してしまうからです。

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これは、離石という町の市場で、豆腐を売っていた子。豆腐は大きな塊で持って来て、切り分けて量り売りです。大豆と物々交換もできます。同じ目方、つまり乾燥した大豆1キロを持ってゆけば、豆腐1キロをくれます。

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この子は顔つきからして‶外地人″だと思います。炭鉱労働者の子どもでしょう。バスにひとりで乗って来て、ひとりで降りていったのを覚えています。

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