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番外編 中国黄土高原の子どもたち その1

古いデータがUSBの中に残っていたのでご紹介します。これらは今から10年以上前に書いていたブログにアップしていたものですが、当時、彼の地ではインターネットを繋ぐことがタイヘンな大ごとで、ファイルサイズも非常に小さく、ぼやけてしまっていますが、ご承知おきください。

2005年から2011年にかけて撮ったもので、場所は中国山西省臨県という地域です。

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私が村に入った頃は、どんな小さな村でも必ず小学校はありました。しかし、2012年だったと記憶しているのですが、界隈の村々から、政府の方針でいっせいに小学校がなくなりました。出稼ぎで人口が激減し、子どもがいなくなったからです。

初期の頃は男だけがでかけて、お母さんと子どもたちは村に残っていたのですが、徐々に夫婦ででかけるようになり、それでも小さな子は老人たちに預けていました。

その後、法律が変わって、農民戸籍でも町の学校に入れるようになって、子連れで出稼ぎ、というか、都市部に居住を移す若い家族が激増したのです。かつては、農民戸籍で都市に住むことは違法でしたが、2008年の北京オリンピックをはさんで、農村の安い労働力が不可欠となったからです。

蛇足ですが、法律が変わる前、北京の街中をウロついていた時に、「戸籍を買わないか?」と言い寄られたことがありました。つまり、売買されていたということです。中国は多民族国家ですから、大都会に行けば、例え私の中国語(標準語)の発音がおかしかろうと、外国人とは思われないのです。まあ、それほど私の恰好がみすぼらしかったということでしょうが、、、

子どもたちを連れてゆくのは一番に教育の問題です。親たちの願いは、子どもに少しでもいい教育を受けさせて、将来に備えたいということです。

中国の子どもたち(青年も含めて)というのは実によく勉強をします。なぜそんなに勉強するのかというのを、一度大学の先生に聞いたことがあるのですが、それはやはり「科挙制度の伝統」だとおっしゃっていました。一生懸命勉強していい成績をとれば、誰でも、家柄や門地、親の地位や収入などに関係なく、出世の道が開かれているからです。とりわけ農村部においては、老後の面倒は子どもに頼るほかないので、せっせと我が子の教育に投資することになります。

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山西省の昔の呼び名は「晋」で、晋劇が盛んなところです。(私たちから観れば、「京劇」と変わりません。)各村々で劇団を呼んで、普通は年に一度、3日間6ステージを開催します。村によって開催される日が違うので、しょっちゅうどこかの村でやっていることになり、老人たちの最大の楽しみとなります。自分の娘が嫁いだ村などに出かけて、酒を飲みごちそうを食べながら、昔馴染みとも旧交を温め合います。

これまた蛇足ですが、「国家級貧困地区」に指定されている地域なのに、子どもたちはいい服を着ているではないか?と思われるかもしれません。この写真の村の晋劇は、毎年新年に行われ、村を出た若者たちが、子どもを連れていっせいに帰郷します。中国人は概して‶着道楽″の傾向があり、見栄っ張りでもあるので、とりわけ子どもにはいい服を着せます。

しかし、いずれにしても、私が村に入ったころよりも年々暮らしぶりは豊かになり、村を離れた2018年の頃には、自家用車で帰郷する人たちが増えました。しばらく前までは、山道を小一時間歩かなければバスが通るところまで行けなかったのですが、この変化のスピードたるや、凄まじいものがありました。

普段村に残された老人たちの暮らしぶりも様々でしたが、ひとえに子ども、とりわけ息子たちが出世するか否かにかかっていました。どの村に行っても結婚できなかった男たちが何人もいましたが(男の数の方が多かったから)、彼らの生活は悲惨でした。

一時期‶ひとりっ子政策″が掲げられましたが、老後の保障のない農村部では考えられないことで、罰金を払ってでも2、3人は産んで、それから避妊手術を受けて、それで打ち止めです。

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私が住んでいた臨県という地域は、黄河に面していて、中国でも最も古い漢族の伝統が残っているところだといわれています。言語も特殊で、臨県語というのは、北京から来た中国人でも7,8割は聞き取れないというほどです。葬儀の形も最も原初的といわれていて、民俗学の研究対象にもなっているようです。

その葬儀の場では、幼い子ども達が主役になるのです。葬儀の場に故人の連れ合いはほとんど顔を出すことはなく、喪服も着ません。実際に儀式を仕切るのは息子たちになるわけですが、3枚目の写真のように、葬列の先頭で遺影を持つのは、孫、そして歩くことができるようなひ孫がいればひ孫です。赤い帽子を被っている子は内ひ孫、緑色は外ひ孫です。

この赤い帽子を被った子のことを「紅帽子」と呼ぶのですが、この数が多いほどその葬儀は立派だったということになります。つまり、それだけ故人が長生きをした証になるからです。(3枚目の坊やは内ひ孫ですが、この時はなぜか白い帽子を被っていますが、なぜだかはわかりません)

もちろん、若くして‶非業の死″を遂げる人もいるわけですが、その時は葬儀は近親者だけで地味に行われ、12歳以下の子どもが死んだ場合は、葬儀は行われず、墓も造りません。

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この女の子だけが‶外地人″(他の省から来た人のことをこう呼びます)で、四川省からやって来た炭鉱労働者の子どもです。山西省は当時は中国一炭鉱が多いところで(現在は内モンゴル)、四川省、甘粛省などから大勢の出稼ぎ労働者が働きに来ていました。特に四川省の人々は家族連れでやってくることが多く、何ヵ所かの炭鉱を数年間転々とし、お金を貯めて故郷に帰って行くというパターンが多いようでした。

炭鉱事故も多く、私が住んでいた村でも一度出水事故があって、20人ほどが亡くなりました。ほんとうに命がけで、現代中国の発展を最底辺で支えてきた人たちだと思います。一度炭住(炭鉱労働者の宿舎)で、「怖くないの?」と聞いたことがありましたが、「大丈夫、四川省は人口が多いから、オレが死んだらすぐ次がやってくるよ。」と笑っていました。

ちなみに、炭鉱の近隣に住んでいる人たちは、例え炭鉱で働いても危険な坑道に入ることは滅多にないようです。それはなぜかというと、もし事故が発生した場合、補償等々で面倒なことが発生しやすいので、むしろ経営側が嫌うのだそうです。補償金額がいくらくらいだったか思い出せないのですが、とにかくこれほど見事なまでの‶使い捨て労働力″は他で見たことはありませんでした。

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最初にこのパンツを見た時には、てっきり破れているものだとばかり思って「あら、お母さんなんで縫ってあげないんだろう?」なんて思ったものですが、小さな子どもたちはこんなパンツを穿いています。彼の地の赤ちゃんたちはオシメをしないのです。嬰児の頃も、床の上に防水性のある布を敷き、その上にタオルなどを敷いて、その上に寝かせます。股のところに小さな布を挟ませたりしますが、ほとんど垂れ流し状態になるわけで、その都度タオルを交換することになります。この尻割れパンツになってからも、けっこうあちこち自由に排せつしていますが、周りの人もそれが当たり前だから、どこで何をされても平気です。ヤオトン式住居の床は、剥き出しの土が踏み固められたものなので、掃除もしごく簡単だということもあるでしょう。このパンツと関係があるのでしょうか?子どもたちの自立は早いです。私が村を離れてすでに3年になりますが、今頃は紙おむつが普及しているかもしれませんね。

この子どもたちのほとんどは、ゆきずりに撮ったのではなく、同じ村、近くの村でたびたび会っていた子どもたちですから、ほんとうに懐かしいです。今頃どうしているのかなぁ?

*なつめの古い写真も追加しました。どうぞ見てやってください。

https://note.com/natsume87/n/n26c589c260cf














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