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民工飯

古鎮賓館
李家山で電信柱の設置工事が始まって、しばらく停電が続くので、磧口チーコウに下りてきました。今度は「古鎮賓館」という、ちょうど村の真ん中にある安宿に住むことにしました。ここはヤオトンではなく、レンガを積んで作った細長い学校の校舎のような建物で、部屋は4つしかありません。

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ここの老板ラオバンは器用というか、何でも屋で、自分の部屋が「写真館」になっているのですが、どこで技術を習得したのか「入れ歯屋」もやっています。その上に「バイタク」もやっているし、建築工事の「手配師」みたいな仕事もやっているのです。

そしてちょうど私が下りてきた翌日、黒龍廟の再建工事のために、運城という町から10人ほどの民工(=出稼ぎ労働者)がやってきました。

黒龍廟というのは、磧口のシンボルともなっている明代に建てられた廟ですが、もともとは、現在ある廟の裏手にもうひとつ同じ大きさの廟があったらしいのです。私が聞いた限りでは、抗日戦争を戦うための手榴弾の木部を取るために、村人の手で破壊されたそうです。

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それで4つある部屋のうちの3つに彼ら民工が住むことになり、私はお隣さんとなったわけです。彼らには食事の用意をする専門の女性がひとりいるのですが、こういうときに中国人というのはまったく気さくで、当然のことのように、私も彼らと一緒にごはんを食べることになりました。「民工飯ミンゴンファン」というやつです。

彼らは冬季2ヶ月ほどは、土が凍って仕事ができないので帰郷しますが、それまでは毎日休みなしで働きます。廟をひとつ建てるわけですから、完成までには2年以上かかるそうです。

思いもかけず、私が中国に来て以来、最大の関心の的だった民工たちと同じ屋根の下で暮らすことになったわけです。いまはまだちょっとあいさつを交わす程度ですが、近いうちに酒でも持って、お隣さんを訪ねてみるつもりです。                         (2005-10-14)

民工飯
民工たちの食事は、彼らの親方のオクさんが作っています。彼女にとっても日本人など始めてみる人種なので、何かと興味を示していろいろわからない言葉で話しかけてきます。

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食に関して中国人はだいたいそうですが、彼女も私の顔を見たその日から「ごはんができたよ!」と呼びにきてくれました。それで私は一日に一度は彼らと一緒に、というか、彼らに混ぜてもらって食事をしています。

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おいしいか?といわれれば、大量に作るので決してまずくはないのですが、とにかく毎日毎日まったく同じメニューなのです。朝は食べたことないのですが、昼は麺に野菜炒めの具をかけて食べます。夜は、麺がマントウに変わり、アワのおかゆが付きます。

具には豆腐やトマトが入ったりもしますが、肉はなし。基本的には白菜とじゃがいもと極太のはるさめのようなものを炒めて、水と塩と醤油と化学調味料を入れるだけです。みんなはそれに唐辛子やゴマや酢をかけて食べています。

朝から晩まで肉体労働をしているのだし、もう少しカロリーとバラエティに富んだものを‥‥と私は思うのですが、雇用者から支払われる食費は、ひとり一日4元なんだそうです。4元といえば、北京のパン屋で買うバゲットが4元、ケンタで飲むコーヒーが4元、カップラーメンでもそれくらいで、まったくため息が出てしまいました。

そこで先日、いつも“タダ飯”を食べさせてもらっているかわりに、日本の味を味わってもらおうと思って肉じゃがを作りました。高くて普段は食べられない豚肉をたくさん入れ、砂糖はぐっとひかえて濃い目の味にし、自分でも満足できる仕上がりになりました。

ところが結果は、どうも評判が芳しくなかったのです。おいしいという人もいましたが、‶口に合わない″人が多く、中にはこっそり捨てていた人もいたようです。

しかし北京ではまったく事情が違っていました。私はときどき日本食を作って中国人にふるまっていましたが、みんな喜んで食べてくれました。「日本食は身体にいいから、作り方を教えて欲しい」という人もたくさんいました。

考えてみれば、豊かな都会人と違って、こちらの人たちは、生まれてから数十年間、ずっと決まったものしか食べてこなかったわけで、味そのものに対するキャパシィティからして違うのかもしれません。

それでも私はめげることなく、次回は特別に寒い日を狙って、トン汁を作り、なんとか彼らに「ウマイ!」と言わせてみたいと思っているのです。            ( 2005-10-21)

寝ずの番
お寺をひとつ造るわけですから大量の材木が必要になります。民工たちがやってくるよりも前に、古鎮賓館のすぐ前の空き地に積み上げられていました。すべて東北地方からやってきたものだそうです。

そして材木が到着するや否や、たくさんの村人たちがその山に群がって何かしているので、何だろうと思って近づいてみると、なんと、みんなで材木の外側の樹皮をむしりとっていたのです。もちろん燃料にするためです。ゴワゴワしていた材木があっという間につるっと裸になりました。これは公共の建築工事なので、誰も文句をいう人はいません。

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最初のうちは、樹皮を剥かれてなんだか寒そうな柱材がゴロンゴロンところがっていましたが、そのうちに少し小さめの板状の木が運ばれてきたり、加工されて材木もだんだん小ぶりになってきました。そして“盗られる危険性”が出てきたのです。

古鎮賓館の前の道は、黄河に沿った幹線道路で、トラックやオート三輪が昼夜をかけてひっきりなしに走っています。老板は、磧口の人は顔見知りばかりだから盗らないけど、オート三輪が危ないというのです。

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けっきょく民工たちが交代で寝ずの番をすることになりました。材木置き場に向けて1000ワットの蛍光灯を一晩中明々とともし、ビニールシートで三角形の見張りテントを作って2人が寝泊りすることになったのです。布団を何枚も重ね、電気毛布も持ち込んで、今のところはなんとか過ごせそうな空間ですが、この先じきに氷点下の世界に入ります。それに夜中に停電という事態もあるでしょう。

日本ならばこれはガードマンの仕事で、大工の仕事のうちには入らないと思うのですが、「中国の民工というのはね、な~~んでも自分たちでやらなければならないんだよ」と親方が笑っていました。            (2005-10-22)


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