見出し画像

打工(ダーゴン)

ここ数日、私はジェンシンと一緒に黄河の畔にある畑に行って、綿摘みをしたり、収穫した豆のさやむきを手伝ったりと“農作業”に精を出しています。ここでは自分の民宿で使う野菜はありとあらゆるものを作っていて、布団だって綿からの自家製なのです。

画像1

ジェンシンは毎朝5時半くらいには畑に出て、昼には戻ってきて、また午後にも出かけたりします。それで食事の用意もだいたい彼がします。この家でもご多分にもれず、男の方がずっとよく働くのです。

画像4

ジェンシンの家では現在11畝(1畝=1/15ヘクタール)の畑を所有していますが、これはじいさんの時代にはもうすでにあったそうで、自分で勝手に耕して自分のものにした畑だろうといっていました。人民公社の時代もありましたが、今はすべて個人のもので、売買もできるそうです。

彼はいま、耕作放棄した農地を19畝借りていて、全部で30畝ほどの面倒を見ているそうで、大部分が紅棗の畑です。畑の地代はいくらかと聞いたら、タダだそうです。それどころか、条件の悪い畑は頼まれてもやらないそうで、つまり農地が余っているのです。それはなぜかというと、みんなお金になる打工(ダーゴン=出稼ぎ)に行ってしまうからです。

画像3

今年の紅棗は旱魃のために実が小さくて、ジェンシンの家でおそらく1500~600元(1元≒14円)くらいだろうといっています。それくらいの金額なら、ちょっと条件がよければ1ヶ月ほどで稼げるお金なので、みんな農地を放り出して打工に行ってしまうのは無理もない現実です。

かつては農民の都市への移動は法律で禁止されていたのですが、都市の方が労働力を必要としている以上、当然法は改定され、“猫も杓子も打工”の時代が到来したのです。比較的都市に近いこのあたりでは、家族の中で誰も打工に行ってないウチを見つけるのは難しく、若い女性も含めて、離石へ太原へ北京へと労働力が流れていっているのです。

ジェンシンたちの21歳と23歳のふたりの息子も北京の工事現場で働いています。ロンフォアが「国慶節休暇(10月1日から1週間)には、必ず帰ってくるように電話したけど、どうだか?週末にはディスコに行って朝まで踊ってるっていうんだから、いったい何考えてるんだか‥‥」と複雑な口ぶりでしたが、いつか日本の母親たちが抱いた同じ困惑を、いま磧口の母親たちは追いかけているのかもしれません。            (2005-09-07)

磧口電力事情
都市へ流れていっているものは労働力だけではありません。それは、電力です。

3ヶ月前に磧口に来て以来、1日に1度も停電しなかった日は、数日しかありませんでした。毎日毎日停電します。6月に来た当初はその時間も比較的短く、さして不便も感じなかったのですが、暑さのピークを迎える7月に入ってから俄然状況が厳しくなり、朝起きたらまずは「没電」。たまに日中数時間来ることもありますが、ずーーーーっと一日中来ないときもあり、夜になってようやくなんとか電気が来るという状況が続きました。8時か9時頃です。

7月末から8月初めにかけては、おちょくってるんじゃないかと思われるほどヒドく、ついたと思ったらすぐに停まり、30分来たかと思ったらまた停まり、10分ついてはまたまた停まり‥‥といった最悪の状態が続き、2日間まったく来なかったこともありました。

ところが、山西省は中国では石炭の産出量が最も多い省で、磧口の近くにも大きな発電所があるというのです。それなのになぜ???

それは、電力の大部分が、都市へ、北京へと流れていくからです。もっとも先日会った副村長は、「いま発電施設で大工事をしているからで、来年からはこんな事態にはならない」といっていましたが、私は信用していません。水すらも、山西省北部のダムから、北京まで強引に水路を曲げて供給しているという新聞記事を読んだことがあるからです。余っているならともかく、足りなくて、ここでは洗面器一杯の水を使いまわしているというのにです。

工場もオフィスも大学もない農村部は切り捨て。中華人民共和国の首都北京では、水も電気も垂れ流して、クーラーはがんがんフル稼働し、都市はどんどんヒートアイランドと化しているのです。北京にも住んだことがあるのですが、私の経験では、北京の停電は1年に1~2回です。

暑さのピークが過ぎたからでしょうか、私が今回磧口に戻ってからは、状況はずっとよくなって、朝から電気が使える日が続いています。ところが私はいま李家山にいるので、きのうは、1時間歩いてワンバに着いたら停電、という悲惨な目に遭いました。で、日が暮れてから山道を戻るわけにもいかないので、しばらく待った後あきらめて、ずっしりと重くなったパソコン担いでトボトボ山道を戻りました。

「お上の決めることだから、我々にはどうしようもないよ」と老百姓(=一般庶民)はあきらめ顔ですが、私はこの理不尽さが“暴動”にまで発展しなければよいがと、余計な心配をしているのです。        (2005-09-08)

若きエリート
きのうおとといと、珍しく私以外の泊り客がやって来ました。アンドリューというフランス人のカメラマンと、劉ジェンシュンという若い中国人の2人連れです。ジェンシュンは、現在フランスに留学中の一時帰国で、アンドリューは2度目の中国訪問です。

今月の末には、チベットに入ってそこで世界から12人の人たちが合流し、ラサからカトマンドゥまで自転車で走破するのだそうです。

ジェンシュンは、フランスに住んでまだ数ヶ月、その前はイギリスに1年間留学していました。もともと英語が話せたということで、華僑かと思うほど、流暢な英語を話します。日本語も3ヶ月ほど勉強したことがあるけれど止めてしまったのは、私の察するところ、これからの中国にとって、日本語はそれほど役には立たないと判断したからだと思います。

彼は3年前にお父さんを亡くして、その遺産で留学しているといっていましたが、お父さんは公務員だったそうで、なぜそんなにお金があるのか不思議です。よほど高い地位にいた人なんでしょうか?

彼もやはりネット上で文章を書いて発表していて、私のことを書きたいというので、インタビューを受けました。私がなぜ磧口にやってきたのか、いま何をやっているのか、学生たちとの活動の内容はどのようなもので、どういう目的があるのかなどなど‥‥そして、靖国・教科書・魚釣島の三大問題です。

彼はまだ20歳なのですが、海外で暮らし、英語も堪能で、世界のニュースに身近に接しているので、さすがにこれまで磧口で出会った人々とはまったく違っていました。

この間の一連の“反日活動”は、あくまで政治活動であり、それは中国の国力がかつてよりずっと増大したからであり、中日間の国力が接近していることを示すものだろうといっていました。そして、2、30年後には中国の国力はおそらく日本を超えるだろうというのが彼の予測です。また、中日関係は中日2国間の問題だけでとらえることはできない、といういいかたも、磧口の人々の口からは決して出てこない言葉です。

私に対する質問も的確で頭の回転も速く、いかにも自信に満ちた“中国の若きエリート”といった感じでした。こういう人たちが明日の中国を担っていくんだろうなぁと思わせるものがありましたが、彼は政治の世界ではなく、フランスから帰ったら商売を始めるのだそうです。

ただし、ひとつ気になったことは、ジェンシュンはかなり早い年齢から美酒美食に慣れ親しんでいるのか、この歳にしてすでに恰幅ある立派なビール腹をしていたことです。そしてもっと気になったことは、もし中国が何十年か先に日本を超えるとしたら、そのときには数値で測りきれないほど大きなものを、換わりに失うのではないかという私の疑念に、あまり関心を示してはくれなかったことです。               (2005-09-09)

歴史か?スポーツマンシップか?

画像2

アンドリューは50歳で、糖尿病持ちで、昔は好きだった酒もタバコも断ち、いびきがものすごくて、子供が好きで、働いている人の写真を撮るのが好きな、風景写真のプロカメラマンです。

フランス人だけれどイギリスの生活が長いため、英語もネイティブです。中国語はニーハオとシィエシィエしか知らないのですが、「OK」のひとことをたくみに操って村人の中に入り込み、写真を撮ってきます。「OK?」だったり「OK!」だったりするのですが。ちなみに日本語は「ありがとう」と「さようなら」を知っていましたが、日本に行ったことはありません。

もの静かで多くを語らず、他人に優しい心づかいをし、ソフィスケイトされた大人の雰囲気に満ちた熟年のフランス人男性です。

ところが、ジェンシュンがいうには、「ものすごいドイツ嫌いで、スポーツの試合なんか見てても、相手がドイツとなると、人が変わったみたいに汚い言葉で罵る」んだそうです。

これは、先のワールドカップで、中国人サポーターの“スポーツマンシップ”に欠ける行動に話が及んだときに出た言葉ですが、「もうフランス人のドイツ嫌いは歴史的宿命だから、どうにもならないね。論理じゃない」そうです。

ということは、同じように“中国人の日本嫌い”ももう宿命で、どうにもならないというのでしょうか?もし北京オリンピックでもあの光景が繰り返されるとしたら、アンケートの針は間違いなく“嫌中”の方に大きく振れることでしょう。

3年後のオリンピックの頃は私は磧口にはいません。いまは私の顔を見れば「ご飯食べたの?」「ちょっと休んでいきなよ」と必ず声をかけてくれる村人たちも、やはり人が変わったように日本チームを罵るのでしょうか?

たとえば中国以外の国と日本チームが戦うとき、テレビの前で私のことを思い出して、日本チームの方を応援してくれる人が、この村の中にはきっといると私は信じています。                (2005-09-10)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?