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小朋友(小さなおともだち)

小朋友

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私の部屋には入れかわり立ちかわりお客さんがやってきます。いうまでもなく、日本人を見てみたいからです。

毎日2回は顔を出すのが、陳シャオウェイという小学校4年生の男の子。こちらの小学校は昼休みが2時間あるので、午前の授業が終わるとまずやってきます。彼は先生の“当たりがよかった”ので、きちんとした標準語を話します。今の中国では、先生は標準語を使って授業をすることが決められているのですが、先生の標準語がそのまま生徒の標準語になるのは当然のことでしょう。彼がいると土地の人の言葉を通訳してくれるので、よく一緒に外出します。

とてもよく気がつく賢い子で、私が財布を何度も盗られたことを話して以来、ことあるたびに「財布はしまったの?」「カメラはバッグに入れたの?」と注意してくれるので大助かりです。

「もう日本に帰らなくてもいいから、ずっと磧口に住みなよ」とうれしいことをいってくれるのは、決して一日に1個だけあげる日本のアメ玉が原因ではないと思っています。                                                         (2005-06-18)

貝殻のペンダント

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ホンリィやイェンメイの同級生だった子たちもよく遊びに来ます。概して山西の子供たちはおとなしくてはにかみやが多く、部屋に来ても黙っている子が多いのですが、「今日本ではどんな歌が流行ってるの?」とか「今子供たちが一番ほしいものは何?」といったような質問をしてきます。

その中にひとり、戦争問題について「私たちはおじいさんおばあさんからたくさん話を聞いてよく知っている。あなたたち日本人は、親がそうやって子供たちに教えてきたのか?」と鋭い質問をしてきた女の子がいました。これまた私の中国語能力ではなかなか難しい質問ですが、それなりに頑張って説明をしました。彼女は「教科書を見て私は何度も泣いたことがある。それをあした持ってきて見せてあげる」といって帰っていきました。

翌日彼女が持ってきた教科書には、私も以前どこかで見たことがある、中国人の死体を前にほくそ笑んでいる日本兵の姿がありました。私が言葉に詰まっていると、「私はこれまで日本人はとても残虐な人たちだと思っていたけれど、きのうあなたと話してから、日本人が好きになった」というのです。そしてプレゼントだといって、貝殻で作ったペンダントを差し出したのです。

それは日本の海水浴場でよく見る、貝殻を繋いだだけの“安っぽい”おもちゃだったのですが、もちろんだからというわけではなく、「日本は海に囲まれているので、こういうものはたくさんあるけれど、あなたたちにとっては貴重なものだから」と私は辞退しました。でも今になって、やっぱり受け取った方がきっと彼女は喜んでくれただろうと、ちょっと後悔しているのです。                                                                                                    (2005-06-18)

黄河の渡し
黄河賓館の前を黄河が流れています。
今はあまりに暑いので、遊覧船も開店休業。観光客らしき人の姿もめったに見られません。ただし、対岸の陝西と結ぶ渡し舟は、毎日何往復かしています。5日に1回開かれる市の日には、この渡し船に乗ってたくさんの人々がやってきます。磧口側の方がやはり太原・北京に通じている分、モノが豊富にあるということなのでしょう。「黄河の渡し」は、今も一般の人々の生活水路として健在なのです。

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今日は磧口の羊が陝西に売られて行きました。人間も羊も一緒になって、黄河を渡ります。

このあたりの黄河の流れは、南の長江(揚子江)などと比べると、はるかに急流です。対岸まで泳いで渡ることはできないと村人はいっていました。ベテランの船頭さんの腕の見せ所です。           (2005-06-19)

黄河のある暮らし
このあたりでは、山西省側の村人たちにとって、黄河は自分たちの日々の生活の場でもあります(陝西側は河畔から人家までが少し離れている)。河畔からはずいぶん高い位置に道路があり、そこにまた石積みをしてから建てている家も多く見られます。

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現在の黄河は工場取水などにより水不足が深刻だといわれていますが、かつては“暴れ黄河”の名の通り、ときに人間の叡智をはるかに超える凄まじい勢いで襲いかかってきたのでしょう。現在の穏やかな黄河を見ていると、この“高さ”がとても不思議にも思え、同時に悠久の黄河の歴史がしのばれるものでもあります。

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村人たちは、河畔まで下りて黄河で洗濯をし、風呂がある家などないので水浴もし、髪を洗い、子供たちが素っ裸で水遊びをしています。その横で放牧民が、ヤギや羊に水を飲ませたり、ときには頭の上からゴミや瓦礫が降ってくることもあります。困ったことに、黄河の畔はゴミと汚水の最終処理場でもあるのです。                    (2005-06-20)

短信(ショートメール)
磧口に着いて5日目くらいに、太原理工大学撮影科から25人ほどの学生が黄河賓館にやって来ました。毎年ここに来て、写真撮影の実習をするのだそうです。泊り客は彼ら以外には私ひとりなので、2日、3日とたつうちにだんだん口をきくようになりました。

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私が日本人だとわかると、やはり話題はこの間の“反日行動”のことに及び、私の会話能力をはるかに超えて、激しくまくしたてる学生もいました。彼らの批判は、戦後責任、靖国、教科書問題と、私たちが新聞紙上で目にする、いわゆる“ステレオタイプ”のものとしかいいようがなかったのですが、どうやら、日本人と直接話をするのは初めてという人たちばかりだったようです。もっとも、私の中国語能力は“中の下”(下の上?)程度のものでしかありませんから、立ち入った議論ができるわけではありません。

そのうちに、私はあることに気がつきました。
「ちょっとあんたたち、日本製品ボイコットっていうけど、みんなが持ってるカメラって、NikonとCanonばっかりじゃないの?」

「あ、バレたか。しょうがないよ。ほんとうはドイツ製が買いたいんだけど、高くって」
私はこのとき、少なくとも、今目の前にいる彼らの反日感情の“根は浅い”と思ったものです。

学生たちは炎天の中、精力的にあちこち動き回って実習授業を終えた後、5日目の午前4時、一日に1本だけある太原行きのバスに乗って帰っていきました。

その夜、私の携帯電話に「短信」が入りました。

「ニーハオ、僕は王グオウェイだけど、覚えてる?けさ帰った学生たちのひとりだけど」
名前には記憶があるけど、20人以上もいた学生たちの顔と一致するわけはありません。すると、
「もう寝てしまったの?僕はそんなに印象が薄かったのかなぁ?」
これはマズいと思って、イェンメイに聞いてみると、彼女はちゃんと覚えていました。

「もちろん覚えているよ。髪の長い、みんなの中で一番ハンサムだった学生でしょ?何か用事?」
「あぁ、それは間違いなく僕のことだよ。別に用事はないよ。ただ、僕は友達を作るのが大好きな性格だけど、初めてできた外国人の友達に、お別れのあいさつができなかったことを謝りたかっただけなんだ」 (2005-06-21)

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