番外編 炭鉱-中国山西省にて
「炭鉱」という言葉を聞いても、今や若い人たちにとっては、‶社会科の教科書で見たことがある”ほどに現実味のない言葉かもしれないですね。かつてはエネルギー産業の花形で、特に九州や北海道にたくさんの炭鉱がありました。
1963年に死者458名を出した、大牟田市の三井三池炭鉱の炭塵爆発事故当時私は高校生で、白黒テレビの画面から緊迫したニュースが繰り返し流されていた光景をよく覚えています。翌64年が東京オリンピックの年でした。
私が12年ほど暮らした山西省は、当時中国一の埋炭量を有して公営私営の炭鉱がひしめき合い、2008年の北京オリンピックをはさんで、掘って掘って掘り尽くせという時代でした。
村落の地下が採炭のせいでアリの巣状になって、私が住んでいた村でも家屋が傾き、井戸が使えなくなり、煤炭車(石炭を運び出すトラック)阻止の実力行使で、炭鉱の出入り口を24時間封鎖して闘っていた時期もありました。
事故もしょっちゅうでしたが、小さな事故は経営側に握りつぶされ、それが村人の口から口へと伝えられて、‶外地人”(他州の人のこと)の私の耳にも入ってきたものでした。‶命知らず”の男たちとは身近に接する機会も多く、私のブログでも何度か書いているので、2005年と06年のものからご紹介します。相変わらず写真は小さいです。
炭鉱へ行ってきた (2005年11月19日)
私が親しくしていた河南坪小学校の李先生のヤオトンを訪ねると、ダンナさんがいつもゴロゴロ寝ているので、最初の頃はなぜなんだろうと不審に思ったのですが、実は彼は炭鉱で働いていて、その頃は夜勤だったことを知りました。
炭鉱という職場が、場合によっては死と隣り合わせの危険な職場であることは、かねがね新聞紙上で見ていました。生活のためとはいえ、そういった職場を選ぶ男たちの心理はどのようなものか?一度訪ねてみたいものだと思っていたのですが、思いもかけず、目の前に当のご本人がいたわけで、先日念願かなって“炭鉱ウォッチング”に行ってきました。
本来ならば、ずいぶん前から担当部署に申請して許可を待ち、ときにはお金を払って取材許可が出た類のものだったと思いますが、今回はいとも簡単に、ミンジェンのバイクの後ろにまたがって、煤煙の匂いでむせかえる黒色の工場に滑り込むように到着しました。
ここは鉱夫数300人くらいの中規模炭鉱で、李家山(当時私が住んでいた村)からも数人が働きに来ているそうです。山西省の他には、湖北・甘粛・四川省などから来ていますが、彼らは工場内の宿舎で、それぞれ同郷者たちが共同生活を送っていて、炊事洗濯など全部自分たちでやっています。
宿舎の一角でカマドを使ってじゃがいもを炒めているおじさんがいたのでじっと見ていたら、「中に入ってきなよ」と招かれました。甘粛省から来た人たちの部屋で、20代から40代までの7人が一緒に暮らしていました。彼らはだいたい同じメンバーで各地の炭鉱を廻っていて、半年くらい働いては他の炭鉱に移ったり、ときには他の職場に移ったりしているそうです。
現在は地下100メートルくらいの坑道で作業しているそうで、エレベーターでまっすぐ地下に下りる構造になっていました。3交代制で、朝8:00~16:00まで、16:00~午前0:00まで、0:00~8:00までの3班に分かれていて、ときどき班を交代します。月収は採炭夫で3000元(1元≒16円)ですが、実際にはフルに働くのは困難で、フツーは2000~2500元くらいだそうです。
私が行ったときはちょうど朝班と昼班の交代時間だったので、エレベーターから真っ黒な顔をした鉱夫たちが、ひとりづつピョコッと躍り出てきて、シャワー室に向かっていきました。腰に付けているのは、ヘッドランプの電池と酸素吸入器で、電池は12時間もつそうですが、酸素の方がどれだけもつのか聞いてみたら、「そんなの知らないよ。これを使うってことは死ぬってことだから、何時間もつかなんて考えたことない」という答えが返ってきました。
甘粛から来たグループの中に、ひとりだけ標準語を話す王チェンがいました。聞いてみると、つい最近まで広州で4年間兵役に就いていて、昨年から炭鉱の仕事をするようになったそうです。
私は坑道の内部の様子など聞いてみたかったのですが、話はいきなり“靖国・教科書”になってしまいました。
私はこういう場合にはまず、中国の国家主席と日本の首相では、権力の質も大きさもまったく違うこと。中国には1種類の国定教科書しかないが、日本には民間の出版社が編集した何十種類もの教科書があること。中国では天安門広場でビラを撒けば即刻逮捕されるが、日本では首相退陣でも天皇制反対でも、自由に撒けることなどを説明し、その上で私の意見をいうことにしています。
王チェンは、最初はいかにも“軍人”といった硬い表情で聞いていましたが、「日本人を見たことはあるが、話すのは初めて」だそうで、私のいいたいことをじきに理解してくれました。
「こんなところに来て日本人と話ができるなんて思ってもみなかったよ。大歓迎さ、いつでも来てくれ」
「結婚してるの?」
「してる。女の子がひとりいるよ」
「家族は心配しない?」
「うん、家族は反対してる。でもここは公営だし、これまで事故起こしたことがなくて安全。それに、石炭掘る機械は日本製なんだ。しばらく働いてお金ためたら辞めるつもりさ」
「お金がたまったら何に使うの?」
「子供を大学までやりたいんだ」
一昔前ならば、家族を食べさせるため、というギリギリの選択肢だった炭鉱も、日々発展を続ける現代中国では、少しずつ趣が変わってきているようではあります。
そして1時間後には彼は立ち上がって、「甘粛料理をごちそうするよ」と室内にあったカマドに火をくべ出したのです。
小麦粉と米をまぜて鍋で炊いたものに、豚肉と野菜を炒めたものをかけた“甘粛料理”をごちそうになって外に出てみると、子供を3人連れた若いお母さんに会いました。どう見ても10代としか思えない幼い顔立ちの彼女に、年齢は?ふるさとは?と聞いてみたのですが、まったく言葉が通じず、硬い表情のまま沈黙していました。
近くにいた人の話では、半年前に家族で四川省からやってきた、中国で最も人口の少ない少数民族の出身だそうです。
私はちょうどその時ポラロイドカメラを持っていたので、写真を撮って渡したのですが、彼女は急にキラキラと目を輝かせて、うれしそうにしげしげと写真に見入っていました。おそらくは、彼女が生まれて初めて見る自分たちの“家族写真”だったと思います。次に行ったときには、坑内で働くダンナさんの帰りを待って、一家5人の写真を撮ってあげると約束して夕闇迫った炭鉱を後にしました。
出水事故 (2006年4月4日)
いろいろなことが次から次へと起こって、いったい何から書いたらいいのか‥‥。
樊家山で炭鉱事故が発生したのです。
昨日4人の死者を出した(*村内でトラックが転落した)樊家山村では、私たち(*当時、小学校の先生をしていた中国人2人と隣同士のヤオトンで暮らしていた)はやっぱり“よそ者”だから、今日は悲しみに沈んでいる村の中をあまりウロウロしないようにしようということで、3人で隣村の賀家湾へいってみることにしました。
途中で小さな炭鉱の横を通ります。道路わきにすぐ坑道があって、櫓がひとつ建っています。帰路、路上にたくさんのバイクが止まっていて、人影も多く、何か緊張した空気が漂っているように私は感じました。何かあったのかしら?と気になったのですが、どちらかというとお気楽な張先生は「いやぁいつもこんなもんだよ」というのです。
私はふざけて、「良くないことって続けて起こるからね。炭鉱事故が起こったかもしれないよ」といったのですが、村に帰ってからそれが本当だったことを知り、アッ!と叫んでしまいました。直接私たちが通った炭鉱ではないのですが、そこから1kmほど離れたところにある炭鉱で出水事故が起き、地下で繋がっているそこでも救出のための作業が続けられていたのです。
私がまったく偶然やって来た、この広大な中国の、名前を聞いたこともない小さな村で、こんなに大きな事件がたて続けに起こるなんていったいどうしたことなんでしょう?大家のおばあちゃんが「村の陰陽師が昨日は日が悪かった、今日また死者が出るといってた」というので、思わず背中がゾクッとしてしまいました。
まだ詳しい状況はわからないのですが、6人の死者が出たという人もいれば、10人以上死んだという人もいます。
今は深夜11時、救急車のサイレンの音が、ウヮンウヮンウヮンとまるで野生動物の叫び声のように黄土高原の闇を引き裂いて響き渡ります。
炭鉱事故というと、私はどうしてもかつて新聞で読んだ「安全帽」という記事を思い出してしまうのですが、今も漆黒の水底に取り残されている人たちがたくさんいるのではないかと思うと、今夜は眠れそうにありません。
安全帽 (2006年4月7日)
事故発生の翌日、私たち3人は近くまで様子を見に行こうとして、近所のおじさんにとんでもないと止められました。事故のあった炭鉱は、ちょうど1本道のどんずまりにあって、道路が分岐するところで完全に封鎖され、厳戒態勢が敷かれていて、まったく近づくことはできないというのです。彼も憔悴しきった表情で、ゆうべは一睡もできなかったといっていました。
今朝から政府の関連車両が50台くらいも続々到着していて、山西省の書記も来たし、中央テレビ局も来ているというのです。そういえば村に新聞記者風の男たちも数人ウロウロしていました。これだけでもかなり大きな事故だということがわかります。
昼頃になってようやく状況がわかってきました。去年まで炭鉱で働いていたという楊さんが、最新のニュースを知らせてくれたのです。
出水事故が発生したのは昨日の午後3時半頃。そのとき坑内には58人がいたけれど、30人は自力で脱出し、残りの28人が地底に取り残されているそうです。しかし、この坑道は深さ400mあり、水は120mのところまで来ているので、生還の可能性は絶望的だというのです。
あとから思えば、あの時、全身真っ黒に煤けて虚ろな眼差しで歩いてくる鉱夫とすれ違いましたが、彼は生還できた30人のひとりだったのでしょう。
ところで、実は私は事故が起こる3日前に、郭先生と一緒にこの炭鉱を訪れているのです。ここも櫓が1本だけの小さな炭鉱でしたが、見ていると数分に1回、地底から石炭を満杯にしたトロッコがググッーとせり上がってきて、ドドドーッと黒い塊を吐き出していました。
私たちがウロウロしていると、ちょうど炭住にいた樊家山の人が呼び止めてくれて、部屋の中にも入れてもらいました。彼らは年もとっているので、坑道には入らないといっていましたが、地下に潜っているのはほとんどが四川省、甘粛省などから来た“外地人”だということです。
傍らの2段ベッドには夜班だという青年が眠りこけていましたが、あの彼は無事だったのでしょうか?
そして、私は家族宿舎にいた四川省から来たひとりの少女の写真を撮りました。現像しておくのであとで樊家山小学校まで取りに来て欲しいといって別れたのですが、今はただこの写真が少女の手に渡ることを祈るばかりです。
*安全帽
落盤で鉱夫が閉じ込められ、最初の頃は内側からトントン壁をたたく音が聞こえていたのですが、時間の経過と共に音が次第に小さくなり、救援の手が届くことなくやがて途絶えました。その後に遺体と一緒にひとつの安全帽(ヘルメット)が掘り出されたのですが、その内側には小さな字でびっしりと遺書が書き込まれていたのです。
そこには、「○○に借金が100元あるから返すように。××には50元の貸金があるから返してもらうように。△△には80元の借金‥‥‥‥」と細かく書き記され、最後に「子供たちを立派に育てて欲しい」と書いてありました。その安全帽を見て、地区の党指導者も泣いたと書いてありましたが、わずか1000円、2000円の借金のために、暗い地底の闇から、彼は2度と帰ることはなかったのです。
*私がまだ北京にいた頃、オリンピックの前ですが、道路工事や建設現場の日当が10元(≒160円)だというのを聞いて驚愕したことがありました。すべて「農民工」といわれる人たちで、‶人買い″のようにして僻村から集められ、劣悪なテント飯場暮らしの末に給与未払いというような悲惨な事件も、新聞紙上でたびたび目にしました。その頃の農民工は、読み書きすらまともにできないような人も多く、簡単に騙されてしまっていたのです。
その15年ほど後、私が中国を出る頃には、近隣の都市部の建設現場で、日当100元ならまあまあといったくらいでした。若い人たちは家族で都市部に移住し、村は過疎化が進行して、小学校はすべて閉鎖され、老人たちばかりになってしまいました。私が一番長く暮らした賀家湾という村でも、本来の人口は700人ほど、現住200人程度でした。
*本来、カンボジアの暮らしなどご紹介したくて始めたブログですが、最近のシェムリアップ州では、毎日100人程度の感染者を出しています。タイから帰国した出稼ぎ労働者の陽性者が多く、正確な数字は発表されていませんが、どうやらデルタ株が多いようです。新聞記事によると、密出入国者も後を絶たないようで、今後も感染者は増え続ける可能性があります。
先日、シェムリアップにある日本領事館に問い合わせてみたのですが、もし感染しても、病院で治療を受けられる可能性はほぼないといわれてしまいました。それで最近は、食料品の買い出し以外には外出することもなく、部屋に閉じこもっています。
で、やむなく中国ネタのオンパレードになってしまっていますが、ご承知おきください。
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