「何者か」になりたいあなたへ
「何者かになりたい」と願う主人公が、自分は何者にもなれない、平凡な人間なのだと気づく物語なんてありふれていて、それは10代や、せめて20代そこそこの人間に相応しい青臭い物語。
それでも、もうすぐ35歳になろうとしている私は、まだ何者かになろうと足掻いていた。
そういうありふれた物語と私とは別物だという感覚が、心の奥底にはあったことを今は認めようと思う。
***
34歳の夏。ある人に、こう言われた。
「次にあなたに大切な人が出来たら、『もう頑張らなくていいよ』と言ってもらってください。」
きょとんとした。一瞬。
その次の瞬間、涙が溢れていた。
***
25歳。私は、アフリカに行くことを決めていた。
「私、アフリカに行くんだ!」
あの通りの名は何というのだろう。
山手線と平行に走る、高田馬場の坂道で、友人に嬉々として報告したことを覚えている。
ボランティアとして、かわいそうなアフリカの子ども達を救うんだ、と。
もう、限界だった。
東京で「役者の卵」をやることに。
この生活に、もう終止符を打ちたいと思っていた。
ただ、卒業文集に『舞台女優になる!』とでかでかと書き、田舎を飛び出してきた私は、どうしても丸腰で田舎に帰ることが出来なかった。
いや、わかってる。
あの時、夢破れた私が田舎に帰ったところで、誰も何も思わなかった。
「東京で女優なんてやっぱり難しいのね」ぐらいのことは思われただろうけど、それはごく一般的な感想に過ぎず、「わー!帰ってきたの!おかえり!」という人の方が多かったのではないかと思う。
私を田舎に帰らせなかったのは、私だ。
私のこの、馬鹿みたいに高くそびえ立つプライドだ。
「女優を諦める」という一大イベントは、「アフリカに行く」ぐらいのインパクトをもってしか、遂行出来なかった。
それくらい私は、
「自分が特別な人間」でないと、許せない人間だったのだ。
***
そうやってアフリカに行き、2年間日本に帰ることもなくボランティア活動に勤しみ、(実際に私が触れ合ったアフリカの子ども達は、別にかわいそうではなかった。)
帰国後も、ずーっと
なにかを、ずーっと
「何者かになること」を、ずーっと。
***
「何者かになりたい」と思うのはなぜなのだろう?
「人とは違う」と思いたいから?
そもそも誰かと同じ人間なんて、いるか?
「普通」は退屈だから?
特殊なこと=楽しい、ではないはずなんだ本当は。
誰かに認められたいから?
何かをやっている私なら、
何か特別なことをやっている私なら、
あの人に、あの人達に認めてもらえるから?
「すごい」とは言われるかもしれない。
ちょっと特別な目で見られることもあるだろう。
そうすると、なんだか「認められた」気になる。
でも「認められること」を目的にし続けたら、いつまでもゴールなんて訪れない。
あの時、「もう頑張らなくていい」という言葉に涙が出たのは、
許された気がしたからだった。
「認められるためのレース」から「降りていいよ」と。
そしてさ、ちょっと恥ずかしいけど、
「認められたかった」のは「愛されたかったから」なんだよなぁ。
レースなんて、はじめからなかったのにね。
***
やっぱりちょっと、頑張りすぎてしまっていたのかもしれない。
頑張れば出来たけど、頑張らなきゃ出来なかった。
あーー、なんだ。
私、出来ない人だ。
普通の人だ。
もう、普通の人でいいや。
何も出来ない人でいいや。
そう力が抜けた。諦めがついたとも言うのかもしれない。
そのときに、ふと頭に浮かんだこと。
もう、認めてもらえているとしたら、満たされているとしたら、
私は、何をするだろうか。
特別なことじゃなくていい。目立つことじゃなくていい。誰かと被っていてもいい。
欲しかったものがすでに「ある」としても、
私が、
あなたが、
やりたいことは、なに?
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