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愉快、痛快、奇々怪々。坂を登ったあのカフェで。

愉快、痛快、奇々怪々。
東京に住むなら文京区一択である。
異論は認めるが、私は自信を持ってこの街は最高だと信じている。東京大学周辺の町並みは学生街特有な古き良き下町の雰囲気を纏っていて、散歩が楽しい。住民も落ち着いていて、都会の喧騒を忘れることができる。谷中商店街のメンチカツは美味しいし、おしゃれな銭湯だってある。

そして何より…
最高に面白い奴がいた場所でもあった。

満員電車を忌み嫌う私は、次に東京に住むときはなるべく職場から徒歩圏内の距離に居を構えたいと考えていた。そして、新しく勤め先になった花屋が文京区に店舗を構えていたので、自然とこの地区に住む流れになった。

一方で、文京区の家賃はとても高かった。ただでさえ、2ヶ月間のヨーロッパ周遊で貯金をほぼ使い果たし、給料も前職から半分まで下げてしまった私にとって、その高額な家賃は将来の為の貯蓄を諦めなければならないことを意味した。嫌いな言葉は「仲介手数料」と「敷金礼金」。加えて、家具を何一つ持ち合わせていないホームレス的状況を踏まえると、比較的安価で家具付きのシェアハウスに入居するのは自然な流れだったように思える。広さ3.5畳で5万5000円、住民との交流は一切無し。狭くて息苦しい文京区ライフが始まった。

この部屋は、寝る場所と立つ場所しかなかった。自由を感じられるスペースはベットの上しかなく、布団の上に立つと天井に頭をぶつけた。利点を上げるとすれば、冷房をつければたった1分ほどで部屋が涼しくなることだろうか。あとは、侵入してきたゴキブリを速攻で見つけられることだろうか。なんせ、隠れる場所が殆ど無い。ただ、こんな狭い部屋にゴキブリと二人閉じ込められた時の恐怖たるや、思い出すだけでも身の毛がよだつ。微かに持ち合わせていた覇気を絞り出し、「ハァッ!!!!」と叫んで殺虫剤を放った。この部屋に逃げ込んでしまったのが運の尽きだったな、と心の中で捨て台詞を吐いたことを覚えている。知人に部屋を見せると、「家のクローゼットより狭いね」と言われた。そんな部屋。シャワーを浴びるには100円硬貨が1枚必要だった。


夏の残暑が徐々に冷め、微かにイチョウが紅葉の兆しを見せかけて来た頃だった気がする。ある日、香川県で仲良くなった友人が、たまたま東京にいたのでご飯に行くことになった。集合場所を決めるために友人に滞在場所を聞くと、なんと我が居から徒歩5分の距離のとある家に居候してると言う。この広き東京においてこんな偶然があるものかと互いに驚き、遠出してご飯を食べに行くのではなく、ちょうど互いの家の中間地点にある銭湯に行くことにした。

「居候させてもらってる家主の方も連れて来ますね」

そう言って友人は一人の男を連れてきた。
二週間後、ルームメイトになる男との邂逅であった。

以下、彼の名を「Dちゃん」と呼ぶ。

文字通り、"裸の付き合い"ってやつである。
男は大概、一緒に風呂に行けば仲良くなる生き物である。裸になることが、武器を持たないことの証明になるのかは知らないが、いつもより安心して屈託なく話せるようになる気がする。異論は認めるが、私はこの説を信じている。

互いに簡単に自己紹介をすると、彼と私は同級生であることが分かった。一層気を許した私は、雄弁に自分について語り始め、花屋になるまでの経緯や自分の行動指針、将来の展望を述べた。その反応を見るに、目の前の男が知的な人物であることは分かった。そして、一人の人間の人生を面白がれる人物であることも分かった。私の話を聞いてくれて、理解し、質問を重ねてくれる。中々できる奴じゃないか。さあ、次は君の番だ。君について教えたまえ。

そうやって、自己紹介のバトンを渡すと、彼は自身が経営者であると述べた。なるほど…さすが東京だと思った。きっと、SNSマーケティングとか、そう言った今流行りのIT系の会社を起業した人だと推察。意識が高いですね、と適当な相槌を打とうか思案していた最中、彼から衝撃の経歴が述べられた。 

中学生のとき、社会の授業で地球温暖化を含む環境問題を知った。このままでは、大好きな自然が失われていく危機感を感じた。その時、教科書にはドイツが環境問題に積極的に取り組む先進国であることが書いてあった。ドイツで環境問題について学ぶ必要がある、その為にはまずは語学力を磨く必要があったので、高校は外国語大学付属の学校に行った。その後、ドイツの大学に進学。在学中に会社を興し、再生可能エネルギーに関わる事業を行っている。

驚愕したのが、彼が同級生だということ。自分のことでウジウジ悩んでいた学生時代に、彼は地球のことを考え、素直に行動をし続けていた。友人に序列をつけるのはおこがましいが、現段階において、彼は私が出会った同世代の人間で最も自分の考えを具現化している男だった。素直に尊敬の念を抱き、面白すぎる人間と出会ってしまったことに歓喜した。

もう一つ、驚いたことがあった。
それは、彼の話を聞いても劣等感を全く感じなかった自分の心に対してである。間違いなく過去の私であったら「同世代の人間がこんなに頑張ってるのに俺なんて…」と有無を言わさない自己否定が心を襲ったはずだ。にも関わらず、君は君、私は私、お互い面白い人生を歩んでるね、と笑い合えたのは、彼の陽気で茶目っ気のある性格のおかげかもしれないが、私にとっては大きな精神の成長を感じることができた瞬間だった。

風呂からあがると、火照った体に冷たいラムネが染みた。
もう少し喋りたかったなと思っていると、彼からある提案があった。

彼は2階建ての木造建築の2階に住んでおり、1階は空き部屋だった。私が3.5畳の部屋に住んでいることを聞いた上で、彼は「家賃そんなに高くないし良かったら1階に住みなよ、間取りは俺の部屋見れば分かると思うし」と家に招いてくれた。

突然だが、私にはある哲学がある。

「間接照明を使っている人間に悪い奴はいない」
「花瓶を部屋に置いている人間は信用できる」
「畳の部屋を好んで選ぶ人間は最高!」

以上3点。彼は全てを兼ね備えていた。
部屋も二人で住むには十分な広さだったので、私は持ち前のホームレス・スキルを駆使し、プレゼンを行った。

「なあ、一緒に住まへん?俺を家に住まわせれば、空いてる花瓶が常に花で彩られるで!!」

「採用!!」

かくして、私は3.5畳の部屋から抜け出せたのである。

Dちゃんとの生活は愉快かつ平穏、最高そのものだった。

まず、作ってくれる飯が上手い。エシカルな材料を意識しつつ、常に野菜をふんだんに使った料理を定期的に作ってくれた。揚茄子のつゆ漬けがとにかく美味しい。何度も自分でトライするのに、結局同じ味を再現することはできなかった。私はとにかく強火で料理をするのでよく「火が強すぎる!」と注意されたが、ゆるゆると互いが作りたいときに料理をし、一緒に食べた。私は土日も仕事があったのであまり生活リズムが合わなかったが、それでも一緒に食卓を囲むことは多かったように思う。同じ釜の飯を食う同志とは、私たちのことを指すのだろう。

あと、畳の部屋に布団を引いて川の字になって寝る夜は、毎日が修学旅行の夜だった。話の主題は主に可愛い女の子について。互いに齢25年で培った妄想スキルを駆使し、可愛いインスタグラマーとの理想のデートを語り合ったりもした。真剣に恋愛の相談をしたりもした。もう一度言うが、毎日が修学旅行の夜だった。

さんさき坂カフェとの出会いも忘れてはならない。
家から徒歩5分ほどの距離にあるこのカフェは、愉快な常連客が、これまた愉快で奇天烈な雰囲気を形成しているお店だった。私はお酒が飲めないし、自分を非オシャレ男児だと決めつけてる節があるので、行きつけのバーとか個人経営のカフェとかを見つけられたことがなかったけど、初めて自らの意志で通いたいと思うお店に出会えた。それが、「さんさき坂カフェ」。温かいスタッフと常連さんたち。彼らは私のことを「キング」と呼ぶ。初めてDちゃんと会った際、彼は私の"なつき"という名前を聞いた上で、

「なつき…なつキング…キングでええやん!なんかキングっぽいし」

いや、雑っ!と素直に思ったし、私を常連さんに紹介するときも「彼はキングです」って言うもんだから、皆さんは私のことをキングって呼ぶようになった。確かに呼びやすいし、こんなにすぐ受け入れてもらったのはキャッチーなあだ名のおかげだと思うので今は感謝してるけど…。

誰も私の本名知らんやん笑
まぁええけど笑

さて、そんな笑顔いっぱいの文京区ライフだが、唐突に終わりを告げることになった。Dちゃんが会社の開発拠点がある地に引越をすることに決まったからだ。
私物を常にキャリーバッグに収まる程度しか持たない私にとって、家が無くなることのダメージはそれほど無い。しかし、初めて東京を楽しいと思えた文京区という土地に拠点が無くなること、毎日が修学旅行だった夜が無くなることに寂しさを覚えてしまうのは事実だ。

先週、私の友人と彼の友人を交えたお別れ会を行った。類は友を呼ぶとは本当だ。私達はすぐに打ち解け、時に学術的に、時に哲学的に、各々が持っている知識をフル動員させ、終始おっぱいについて語り合った。こんなアホな時間を過ごせたのは、大学生以来かもしれないと感じたとき、文京区で過ごした時間が、京都で過ごした大学時代と似ていることに気がついた。社会人になっても、大学時代のような親友ができた。奇妙な出会いと愉快な時間は、何にも代えがたい、私の人生の財産になるだろう。

これは別れではない、一時的な"解散"である。

私は私の道を行く、君は君の道を行け。

坂を登ったあのカフェで、また会おう。

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