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歴史入門14 結果より過程がすべて……真田幸村の話

5月7日は、「真田幸村忌」と言われる日だそうです。
「幸村の命日」ということですね。

本当は新暦に直すと、6月3日。
なんせ「大阪夏の陣」で亡くなっているわけです。
ちょっと5月では早いかも。
ただ、追悼の行事は、
5月7日されることもあるようですね。

幸村というのは、後に小説家したときに
付けられた名前とされます。
何年か前の大河ドラマでは、
最後に「幸村を名乗る」という演出をしていますが、
「真田信繁」というのが、実際の名前です。

ほかにも十勇士とされた
「雲隠才蔵」や「猿飛佐助」など、
この方には伝説化している部分が多いのですが、
それを創り出している大きな理由は、
やはりおよそ400年前。
1615年の命日の日に由来しているのでしょう。

つまりは死に方が、
武士として格好よかったわけですね。

そもそも「大阪夏の陣」は、
最初からあまり勝算のなかった戦いです。

徳川家康が天下を取った江戸時代、
家康の最後の憂いは、
秀吉の子である秀頼がまだ大阪に存在していること。
母親の淀君が彼を懸命に守っています。

豊臣への義理で、参謀になった幸村。
その前の「冬の陣」では、
「真田丸」を築いて家康軍の攻撃を耐え抜きます。

本来ならその後、交渉して
大名として生き残る策を工夫するべきだったのでしょうが、
豊臣側はそれに失敗。
大阪城の堀を埋められ、
いつでも攻め滅ぼされる状態に追い込まれるわけです。

そしてはじまった「夏の陣」ですが、
幸村は律儀にもこれに参加します。

そして籠城戦はもはやできない……ということで、
家康本陣への特攻を試みるわけです。

半ばヤケクソだったかもしれませんが、
家康の陣は長く、前線に立ったことなどありません。
突然の攻撃には弱く、総崩れになり、
死を覚悟させるところまで家康を追い込みます。

しかし今、一歩及ばず、
なかなか出陣しない秀頼への不信に加え、
援軍も駆けつけて幸村の特攻隊は崩壊。
敗走中に最後は打ち取られてしまうわけです。

それでも天下を統一した将軍を
最後まで追い込んだ見事な戦いです。
徳川の世になると幕府へのアンチテーゼとして、
幸村はどんどん英雄化することになったんですね。

当人は無念だったかもしれませんが、
こんなふうに結果が残せなくたって
名声を獲得することはある。

その意味では、
「結果がすべて」というのは間違いで
「ほしい結果のために何をしているか」という過程で
多くの人の支持を集めることはできるわけです。
私たちも忘れてはいけませんね。

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