武士道入門36 武士は「歌」でも勝負した

武士たちは感情を押し殺し、悲しみや喜びをこらえ、どうしようもない絶望時にだけ、大笑いしたりした......。
ただ、どこかで自身の感情は、やはり発露したい。そこで『武士道』には、 こうあります。

「感情を抑えることが強く求められましたから、いにしえの日本人は、その安全弁として、詩歌の創作を見出しました」

そう、感情を表に出さない代わりに、和歌をつくって、その思いを詠んだわけです。

武士の人生を見れば、これから死ぬというときや、刀が体に刺さっていたり、 城が燃えていたりするときに、平然と五七五七七の歌をつくって詠んでいます。
この点は確かに、すごいヤツらですよね。
中には武士としての強さより、歌のほうで有名になっている武士もいます。その代表は、鎌倉幕府の三代目将軍、源実朝でしょう。頼朝の甥にあたります。

実朝が死んだのは 歳のとき。鶴岡八幡宮の石段の上で、甥に暗殺されました。
このとき刺客が隠れていたのが、いまは倒れてしまっている大銀杏ですね。

暗殺者の甥、公暁は、一説には、政敵だった北条氏に騙されていたと言います。
つまりは将軍実朝を邪魔に思った勢力が、彼をけしかけて、暗殺させたと いうことです。
ところがこの実朝、 若くして将軍になってから、母親の北条政子や一族の北条氏にずっと権力が独占され、ほとんど和歌をつくって暮らすような日々だった のです。
なんでそんな無害な将軍を、殺す必要があったのか......。
じつはその理由も「歌」にあった可能性があるんですね。

実朝は20代にして『金槐和歌集』という歌集を発表するくらい、優れた詩人だったのですが、その歌を見ると、やはりただ者ではありません。
しかもそこには、世の中をよくしようとする、自らの思いも強くしたためていたと言います。まさに感情を「発露」していたわけです。
これを生かしておいたらまずいな、と、政敵は考えた......。

これはあくまで一説ですが、歌を詠むことも武士にとっては「戦い」だったのかもしれません。
ちなみに次の歌が、実朝が人生最後の日に詠んだもの。まさに死を予感して詠んだ歌です。

いでいなば 主なき宿と なりぬとも
軒端の梅よ 春を忘るな

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