主催者の想い

こんにちは。
本日はここ1週間の、主催者・越野和馬がオープンチャットにて伝えた想いについて3つまとめます。

※このnoteでは、来年開催予定のナツドキ2020に向けて作られた「オープンチャット」(ナツドキ2020製作部)の内容全てをまるっと記録しています。
今回は、まとめではありますが、すべての言葉に大切な想いが詰まっているため、省略は控えています。長くなりますが、読んでいただけたらとても嬉しいです。
(記録者:コーディネーター原岡蓉子)

→オープンチャットはこちらからご参加いただけます◯
→主催者・越野和馬が考えるナツドキのビジョンについてはこちらから読めます◯

①肯定

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-ナツドキとは-
僕はわがままです。あとせっかちです。
なのでいつでも時間が惜しいし、その惜しい時間を自分の嫌なことで使いたくないです。
ずっと自分の好きなことだけやっていたいし、自分の「好き」という気持ちを大事にしたいです。
こんなこと言ってるアラサーは白い目で見られ嘲笑されるのがいつものオチなのですが、それにいちいち傷付きつつも、「あれ?何でこの考えっておかしいんだっけ?」と思いなおします。
好きなことだけやっていちゃダメな世界にしているのは、もしかしたら自分自身なのかもしれない。とも思っています。
僕は映画「JOKER」の最後のシーンで彼が言っている言葉にハッとせずにはいられませんでした。
がしかし、世の中が間違ってるからひっくり返したいなんておこがましいこと到底思えないし、レジスタンスに憧れた過去の自分とは決別しています。
じゃあ僕は何をしたいのかというと、
ただただ「肯定」したいと思っています。
どんなあなたもどんな私も正解だよって言える場所を守りたいと思っています。
否定されるのが怖くて好きなことができない人、間違えるのがいやで発言できない人、認められない表現に嫌気をさしている人。
そんな人たちの好きを肯定して、一緒に胸張って好きを表現する場所。
それがナツドキです。
そして何よりそれが僕の好きだから、ナツドキは僕にとっての肯定でもあります。
そこに今、人が集まって皆で動いている。これこそが僕を僕たらしめるものなのです。
皆さん本当にありがとうございます。
ナツドキ2020をもって、見たことのない景色を眺望致しましょう。

②強調性

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-協調より強調-
昔から協調性がないと言われてきました。
[協調性(きょうちょうせい)]
協調性とは異なった環境や立場に存する複数の者が互いに助け合ったり譲り合ったりしながら同じ目標に向かって任務を遂行する素質。(wikipediaより)
これだけチームを作ってやっているのにこんな事言っちゃうのはご法度なのかもしれないですが、僕には上記の「互いに助け合ったり譲り合ったりしながら」ここにずっと大きな違和感を感じています。しかもそれが「素質」とまで言われるとなんだかもう。
生まれた瞬間から集団の中に生まれ、義務教育の中で半ば強制的に集団の中に配置され、互いに何も知らないままにこの素質を求められる。
僕はこの素質がなくて、いつもいつも反発していました。
意味分かんないものはどれだけ同調圧力かけられても分かりっこないし、やりたくないものはやっぱりやりたくない。
好きな人は好きで嫌いな人は嫌い。
もちろん助け合いたいけれど、そのために譲りたくもないものを譲ることなんてできない。
僕は僕が僕のためにやりたいことがあって、そのために譲ったり助けあったりって言う「選択権」がある。
そうやってずっと尖って今日まで生きてきたおかげで、すっかり集団の中の自分の動き方を忘れてしまいました。
結果どこの集団にもあまり所属できず今の自分がいます。
そして今僕が思っていること。
僕は僕のためにも僕を肯定しなければならない。
もしも他に僕みたいな人がいたら、その人も肯定してあげたい。
だから自分のやりたいこと、自分の意見をはっきりと言える場所を作りたいと思ってナツドキを作りました。
ここには協調性という素質はいらない。
各々が個の信念を強く掲げる場所で、その信念と調性した別の信念とが組み合わさって一つの音楽ができれば良い。
誰かが此処で掲げた信念で、また他の誰かが信念を掲げるキッカケになれば良い。
僕はその全てを肯定する。
ナツドキ。
この世界は協調性より強調性だ。

③対話

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-言葉とイメージ-
先日、あるライブに出演させていただきました。
僕自身、バンドスタイルでライブをしたのが前バンドの解散ライブ以来だったのでおよそ半年ぶり。
とても緊張しましたが、僕はバンドマンだ。一人じゃなくみんなで音を鳴らして体揺らす瞬間が幸せだ。と改めて感じた。
誘ってくれて本当にありがとう。
それはさておき、その時に一緒に出演していたボールプールというバンドの夏目一眞くんという方とお話をしている中で「詩を書くということは絵を描く行為ととてもよく似ている」という内容で盛り上がった。
抽象的なイメージを、より抽象度を下げる行為が「作詞」である「作画」であるとおっしゃっており、僕もこの言葉に強く共感した。
これってでも詩や絵だけでなく一般的なコミュニケーションにも当てはまると僕は思っていて。
人に伝えたい「何か」があって、なんとなく言いたいことは分かるんだけど、上手く伝えることができない。そんなことが僕はよくある。
でもどうにか伝えよう伝えようと思って焦れば焦るほど伝わらない。というかもはや自分が何を言っているのか分からない。
僕は相手の反応を伺って使う言葉を変えてしまうのだけれど、反応が悪い時は言わなくても良いことを口走ってしまう。
「大人になればマシになるだろう」と高を括ったままずいぶん大人になってしまったなぁ。笑
と、そんな悩みを密かに持っていたのだけれども、一眞くんの言葉に相槌を打ちながら「そうかぁ、誰かと話し合うことってきっとこの抽象度を下げる行為をしているんだ」と思った。
ここでいう「抽象度」が僕かあなたのどちらかが出した「悩み」「怒り」「憤り」かもしれない。
はたまた僕とあなたとの「関係性」のことかもしれない。
それとも僕があなたを通して見た「僕自身」のことかもしれない。
どれにせよ、そこには作品を作るそれと同じ行為があって、みんなすでに表現者だったのだ。
だからこそ僕はいつでも会話をしたい。一方的な「伝達」ではなく双方で成り立つ会話を。
よし、今日もクリエイティブにいこう

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