期待のシャワーと土壌

ここ1年ほど、凄い人の下でインターンをさせていただいている。(注:ここでいう「凄い」は、○○エモンのようなカリスマ的な人や宗教的な人ではなく、能力の意味で。)なんでこんなへっぽこ女子大生なんか雇ってるんだろって思うことが多いし、それゆえ辛くなることもある。でも、そこには「期待」というものがあるんだなと仕事を通して気づく。

振り返れば、自分は期待をされてきて今ここにいる。勉強ができるとか、リーダーシップを図れるとかで両親、祖父母、親族、学校や塾の先生、近所の人々に期待をされてきた。それは時には重荷になるけど、純粋だった子ども時代の自分にとって嬉しいシャワーだった。「応援しているよ」「期待しているよ」と、あたたかいシャワーを沢山沢山浴びて、グレることなくまっすぐと育っていけた。

小学生の時、自分と同じくらい勉強のできる女の子がいた。テストは基本100点で、授業中も積極的に発言する。運動会や発表会の実行委員に参加し、ダンスとピアノがうまい。いわゆる出来る女だった。憧れでもあり、自分も憧れられた。いい仲間だった。中学受験がマイナーな地域だったから彼女も私も地元の公立中にそのまま進んだ。
ところが中学になって大きく変わる。テストの上位に名前があがるのは、基本的に男子。女子は自分だけだった。彼女の名は成績に関して一度も聞くことがなかった。クラスが離れていたというのもあるかもしれないが、結果的に彼女とは疎遠になってしまった。卒業後は、あまり良いとは言われていない高校に進んだようだった。

当時は、なんで?という疑問しかなかった。お金がなくて塾に行けなかったから?でも貧しい家の子ではない。そこで考えることを辞めてしまっていた。
でも今振り返ると、周囲の期待や見守りがその子の進路を変えてしまっていたのでは..?と思ってしまう。

自分の育ったところは、塾に行くという習慣がない地域だった。お金があっても、より良い教育のために塾に行かせる!という風潮はあまりなかった。それゆえ、教育に関する意思決定は「子どもへの期待」が大きく絡む。子どものやりたいことを応援することも大切だが、その”やりたい”を育てるためにはある程度の土壌が必要である。どの土壌を与えるか...は期待次第なのかもしれない。

高校は進学校に進んだ自分だったが、同級生の進学までの経緯を聞くと3つの共通項があった(もちろん、これが絶対的なものではない)。それは、絵本を沢山読んでもらっていたこと、ジャンルを問わず色んな習い事をしたこと、進学のために塾に行っていたことだった。家族が子どもに対しての期待の結果だ。

進学校や大学に行くことがすべて正しいとは言えない。でも、もしあの子に何かしら働きかけるものがあったら、今と大きく変わっていたのではないかと悔やんでしまう。

中高生に対してコーチングをしていて、「子どもにかける一つ一つの言葉に注意しなさい」とメンターから言われたことがあった。いつの間にか、シャワーを浴びていた側から振りかける側になっていた。彼女のこともあるからこそ、気を付けている。たとえささいな言葉であっても。




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