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ドギョムのお見送り会に行くまで

ドギョムのお見送り会が当たってしまった。いや、「当たってしまった」という言い方はよくない。まるで全然嬉しくないみたいだ。そんなことはない。ものすごく嬉しくて、いまだに当選したことが信じられずにいる。嬉しすぎて、どんな言葉でこの嬉しさを表現すればいいのかわからない。いつもそう。こんなにこんなに好きで好きで大好きなのに、いざドギョムへの好きを言葉に起こそうとすると、どうやって表現すればいいのかわからず途方にくれてしまう。「No words are enough for you」って歌詞は本当にそう。あなたたちが私に言うよりも、私があなたたちに言いたい。彼・そして彼らを好きと語るときは、どんな言葉だって足りない。

どうにかしてこの感情を整理しようと、当日まで少しずつ私のなかに隠れてしまった気持ちを書き連ねていくことを決めた。これを書いているのは5月7日の日曜日。風の強い日ばかりだった4月を過ぎても、何度も何度も繰り返しApril showerを聴いている5月。「僕たちは5月に咲く花みたいに 待ったからこそ美しく咲くはずさ」。この5月が終わったら、ドギョムに会える6月がやってくる。


まなざすこと、まなざされること

偶像崇拝は、一方通行の愛だ。遠くにいる誰かに想いを馳せるとき、その気持ちが相手に届くことはない。どんなに毎日その人の幸せを願っても、その人が現実をどう生きているのかなんて知る術も、権利もない。そもそも赤の他人が幸せを祈るなんて、おこがましい話なのかもしれない。

世間で言ういわゆる「推し」をまなざすとき、そのまなざし自体が正しいものなのか、どこかで疑っていた。応援なんて本当はただの偽善で、自分が幸福を得るためにただ相手を追い詰めているだけではないのか。大勢の期待を背負って、人前に立って、時には心無い言葉を吐かれ、それでもその人は幸せなのか。わからない。わからないからこそ不安だった。決して返ってくることはない愛のベクトルを、ただ一方的に押しつけるだけのファン。「ファンのために」という言葉を聞くのが辛かった。ファンのためなんかより自分のために生きてほしかった。そんな感情もただのエゴに過ぎなくて、それでも存在が好きであることに変わりはなくて。だからずっと、「推す」ということは修行だと思っていた。楽しいだけの偶像崇拝なんて間違っている、苦しみながら自分の応援の在り方を模索することが「推す」ということなんだ。そう思っていた。これはSEVENTEENに出会う前の話。

これまでの人生でまったく触れてこなかった「アイドル」に出会って、まず驚いたのは彼らから発せられるメッセージだった。

「美味しいものをたくさん食べて」
「幸せな1日を過ごしてね」
「今日1日も頑張ろう」
「みんな元気で幸せになってね、僕もそうだから」
「ご飯をたくさん食べてね!」

こういう言葉を、「月並みだ」と言ったらそれで終わりだけど、ただ私にとってはこの言葉たちが愛のメッセージだった。漠然と「推し」という存在に対して感じていた「幸せになってほしい」という気持ち。押し付けがましいよな、とか、気持ち悪いよな、と思っていたこの気持ちを、どういうわけだか彼らはファンに対して返してくれる。コンサート終了間際のコメントや、日々のメッセージ、雑誌のインタビュー、そして彼らの音楽の歌詞。色んなところから垣間見える、温かい言葉。

SEVENTEENのファンソング(SEVENTEENにかかればほぼ全ての楽曲がファンソングみたいなものなのだが)には、よく「お互いに」という言葉が登場する。まさにSEVENTEENとCARATの関係を表した言葉だと思う。私という個人の声が直接彼らに届くことはまずない。でも、私という個人が属する「CARAT」という共同体は、彼らが毎日笑顔で過ごせたらいいなと願っていて、彼らもまた「CARAT」と呼ばれる人たちが良い1日を過ごせたらいいなと願っていて。私たちが彼らをまなざすとき、彼らもまた私たちをまなざしていると教えてくれる。



明日の朝、月明かりが消えても

ばたばたと毎日を過ごしていたらいつの間に私が参戦するペンミ東京公演が近づいていた。先に開催された大阪公演では、コロナ後ようやく解禁された掛け声について論争が巻き起こっていて、少し疲れる。これに対して現地にいなかった私が言えることはとくにないので、主義主張をするつもりはまったくないのだけど。

掛け声はシンプルに「私はやりたい」派なので、セトリが解禁されてからは集中練習に切り替えている。掛け声文化、初めて知った時はたしかに「歌、聞けないじゃん…!」と感じたっけ。視覚も聴覚もフル活用して、全身を研ぎ澄まして彼らの姿を焼き付けたいのに、声まで出すなんてオタク、やることが多すぎる。

それでも、改めて掛け声を練習してみて気づいた。掛け声文化って天才。だって、私が日々思っていることをみんなのパワーで彼らに届けられるじゃないですか!!今回のセトリには入っていなかったけど『ひとりじゃない』サビの掛け声とか、「永遠に!SEVENTEEN!CARAT!」って声に出して言っていると泣けてくる。あと、「ぴ!ね!じゅ!け!SEVENTEEN!」も大好き。「けろし!おんじぇな!はむ!け!はる!け」も。

お見送り会が当たってからというもの、ドギョムに会って私は何をしたいんだろうとずっと考えていた。たった数秒であろうその瞬間を、何に使おう。ハートを作るとか、大好きって言うとか、多分いろいろあるんだけど、何かをしてほしいとかこれをやってほしいとか、そういう欲があんまりないのかも、と気づいた。

何かをしてもらうより、私がドギョムに伝えたい。いつもありがとう、とか、あなたの歌が大好き、とか、いつも幸せでいてね、とか。ドギョムのハッピーな笑顔と言葉にいつも助けられているから、私もドギョムに伝えたい。いつも幸せでいてねって。「いつも」という言葉はとてもハードルが高くて苦手だけど、あなたが笑顔で笑ってますようにって願っている人間が、ここにいるんだよって、私以外にもたくさんいるんだよ、私はそのなかの1人だよって、伝えたくて、でも普段は伝える手段がなくて、多分、ドギョムに直接伝えられる日はこれを逃したらもう2度と来ないかもしれない。

SEVENTEENに会える日が待ち遠しくて仕方がないのに、終わってしまうことが怖い。夢から醒めてしまう日が来るんじゃないかと、時々すごく怖くなる。そんなときは、「明日の朝月明かりが消えても 僕たちの気持ちは消えないから」と歌うドギョムのパートを聴く。SEVENTEENとCARATの空間はまさに夜だと思う。朝日がのぼったら消えてしまう、儚い瞬間。終わりがあることを自覚しているからこそ、「この夜は短くて、君は当たり前じゃない」というフレーズが美しく響く。
でも大丈夫。朝がやってきても、この月明かりが消えても、そこにあった楽しかった思い出は決して消えたりしないから。そうドギョムが歌ってくれるから。ドギョムの歌は、灯台のように私の行き先を照らしてくれる。


デビュー記念日に寄せて

5月26日。SEVENTEENのデビュー8周年記念日。SNSで「8周年」の言葉を見るたびに、その重さを実感するたびに、まだ1年も応援していない新参者の自分は一体なんなんだろうと考えていた。8年前、自分は何をしていたっけ?

SEVENTEENが語る8年という歳月に、本当は自分はいなくて。彼らの乗る船に途中で乗ったような、どこか申し訳ない気持ちになる。

でも1個だけ誇らしいこともある。8という数字を見るたび、感じたこと。それは、SEVENTEENの輝きに気づける自分になれてよかったな、ってこと。昔の私だったら、多分SEVENTEENのことも、ドギョムのことも、好きになっていなかった。Pinwheelの歌詞みたいに、そこに佇む風車に気づかないか気づいても上辺だけの声をかけるかして、通り過ぎていた。自分のことはそんなに好きではないけど、SEVENTEENを好きな自分は好きになれる。

私には私の人生があるから、悔しいけど、SEVENTEENのことだけ考えて生きていくわけにもいかない。自分のことを考えると苦しくなる。少し前の、もうどうしようもなく苦しかったときの自分は、何者かになりたかった。自分以外の何かになりたくて、ここじゃないどこかに行きたくて、でもどこに行けばいいのか、どんな自分になりたいのかわからず途方に暮れていた。今はもう、あまり自分のことを考えない。私の中に「CARATである私」がちゃんと存在している。自分のことは好きになれなくても、SEVENTEENがいるから、SEVENTEENを好きになった自分のことは好きになれる。

8周年の各々のコメントを見て、1番に思ったのは多分それだった。年月とかそういうものは仕方がない。それをただ悲観するのではなく、彼らを知らないまま生きていた人生もあったかもしれないのに、何かタイミングが上手く噛み合ってこうして13人を応援したいと思えたこと。ドギョムって最高にかっこいい、って気づけたこと。そのことへの感謝でいっぱいになった。デビューから8年間、ずっと輝き続けてくれてありがとうね。


「あたしあなたに会えて本当に嬉しいのに」

楽しみにしていたペンミが終わった。東京ドームで過ごした2日間、このうえなく幸せだった。

1日目は正真正銘の天井席で、2日目はバルコニー席だった。レンタルした双眼鏡で、必死にドギョムの姿を追った。ドギョムはずっと客席に向かってペンサをしていた。近い距離にいるファンへ投げキスをしたかと思えば、遠くの席に向かって大きく手を振る。ミニゲームで自分の番が終わり休んでいる時でさえ、ファンへのサービスを忘れなかった。ピンポン玉運びが終わったあとはさっと片付けに入り、ついでに数個のピンポン玉を客席に向かって投げていた。曲中で自分のダンスパートが終わり横へ捌けたかと思うと、隣のメンバーにちょいちょいとサインをしていた。何だろうと思って見ていると、そのメンバーが客席に手を振ったので、あそこにペンがいるよと教えたのだと気づいた。ドギョムはずっと客席にいるCARATへの意識を忘れていなかった。

コンサート会場でドギョムを見つめるときの気持ちは、幸せ10割。幸福度100%なのに、そのなかにほんの少し、ほんのちょっぴりだけ、切なさとかなしさがある。

ドギョムがペンサをする先には、ドギョムを好きな人がいる。ドギョムがたくさんペンサをするということは、ドギョムを好きな人がたくさんいて、それだけドギョムが愛されているということだ。ドギョムにはいつも愛に囲まれていてほしい。だから、ドギョムのペンサが絶えないということは私にとってもこのうえなく幸せで、素晴らしい景色で。あのペンサが私に向かなくたっていい。ドギョムの視線がこちらに向かなくてもいい。ドギョムを愛する誰かの気持ちがドギョムに届いたら、きっとそこに私の気持ちもあるから。BE THE SUN最終日のメントで、ドギョムが「『私の人生に現れてくれてありがとう』というボードを見ました」と言ったとき、確かにそう思ったんだ。あれは私のボードではないけれど、でも、間接的に私の気持ちも届いたのだと思った。どこかの、名前も知らないドギョムペンのおかげで、私が日々思っていることが間接的にドギョムに届いたのだ。

そう思っているのに、いざ会場に入ると、醜い欲が生まれてしまう。本当は私もドギョムに手を振られたい。ボードを使って気持ちを伝えたい。

あれだけ、いつも与えてもらってばかりだと自分の感情を整理していたのに。そんな努力も虚しく、ドギョムの姿を目にしただけで、もっと、もっと、と思ってしまう。なんて欲深い、なんて醜い。遠くから見つめるだけでこうなんだから、いざ間近で見たら自分はどうなってしまうんだろう。

ドギョムとの相互的な矢印は、「私に向かった矢印」ではない。「CARATという群衆に愛を向けるドギョム」と「そのCARATに含まれる私」でしかない。この、共同体に向けられた愛というのがミソで、私に向かっていないようで向かっていると思い込めるこの感じ、この感覚がとてつもなく安らかで心地よい。私の心の安寧は恐らくここにある。アイドルとの関係は、思い込みの力によって生まれている。

たぶん、最初に「ドギョムのお見送り会が当たってしまった」と感じた正体はこれだ。たった数秒でもドギョムが私を見る瞬間が生まれてしまう。これ以上近くでドギョムを見る瞬間は、きっともうやってこない。これまで整理してきたドギョムへの気持ちが、根底から崩れてしまったらどうしよう。もっと欲深くなってしまったらどうしよう。たった数秒のあの時間を、無駄にしたくないと思えば思うほど緊張する。もし意義のない時間になってしまったらどうしよう。近くで見たくてたまらないのに、近づくことがたまらなく怖い。これを書いていたらついにお見送り会が明日に迫ってしまった。帰り道、電車に揺られながら米津玄師の『アイネクライネ』をずっと聴いている。



長くなったので当日のことはこちらへ
「ドギョムのお見送り会に行った」