見出し画像

また、何度でも


たくさんの星を見た。どの場所でも、どの会場でも。何度も胸を撃ち抜かれて、どんなに見ても楽しさが消えなくて。

ツアー中に見てきたもの、見届けた景色、その1つ1つを書き出すことは不可能だと思う。何かを書けば何かが抜けて、何かがこぼれ落ちていく。

昔はこぼれ落ちてゆくものに痛みと悲しみを抱いていたけど、今は違う。誰かに共有しなくても、誰かに証明しなくても、私の楽しみは私の記憶にちゃんと残っている。じゃあなんで、わざわざ言葉にして残すんだろう?

と聞かれると、それはきっと「未来の私のため」だと思う。だからごめんなさい、これを読んでいる誰かのためではなく、私は私のためにこうして備忘録を書いています。でも、私と会ってくださった方は最後の「会ってくださったみなさんへ」だけでも読んでもらえると嬉しいです。


4都市8公演

ドームツアーが発表されたとき、SEVENTEENと一緒に全国を旅しようと心に決めた。というのは去年のBE THE SUNにさかのぼる(私のcaratとしての原点は、いつもビザサンなのかもしれない。)

ビザサンのときは、名古屋のオーラスだけ参加した。はじめて生で見るSEVENTEEN、はじめて体感するビザサンのセトリ。

でも実際は日本ツアーの6公演目で、私にとっての「はじめて」は、とある誰かにとっては「何度も見た景色」「何度も重ねた思い出の到達点」だった。それがただひたすらに悔しかった。あのときの私ではその日しか行けなかったのだから、仕方がないと言えばそうだけど、だからこそ、次はもっとしがみつこうと思った。

前もって予定を空けておくこと、先着一般やチケシェア、機材開放で粘ること、有給を駆使すること。去年の私の状況では出来なかったことを、今年はちゃんとこなせた。一つ一つこなしていけば、ちゃんと達成できた。今年はそれが出来た。

8公演。

9月の東京ドームも含め、私が入った回数だ。始まる前は怖かった。何度も見たらその分、1回1回の感動が薄まってしまうのではないか?本当に1公演1公演を大事にできるのか?

SEVENTEENの姿を「当たり前の景色」にしたくないのに、自分の心の弱さが出てしまうのではないかと怖かった。SEVENTEENを当たり前にしない強さがほしいのに、どこかで自分を信じきれない。


東京2公演から間が空いて、ベルーナ初日。今日が最後じゃない、と思うと、やっぱり帰り道では不安になった。どこかで慣れてしまったらどうしよう? 1日しかなかったビザサンが特別で、きらきらしていて、ずっと余韻に浸ってぽろぽろ泣いていたからこそ、この心持ちでよいのかわからなかった。

心の中に、冷静な自分がいる。冷静な自分が自分のことをジャッジして、見定めようとする。時々、冷静な自分を咎める自分も出てくるものだから、そうなるともうわけがわからなくなる。自己が分裂していく。

ベルーナ初日で一番覚えているのは、kidlutの1番サビのドギョムのパートだ。

괜찮아 너의 세상은
지금의 너 그대로

アリーナの後ろのいわゆる「埋もれ」席で、このフレーズが一番、私の心を満たしてくれた。それだけ声量もすごかったのだと思う。まっすぐ、ストレートに体に響いた。

このフレーズであれば、直で聞いて日本語の意味がわかる。「大丈夫、君の世界は、今の君のままで。」脳が勝手に変換してくれたから、歌詞がよりダイレクトに響いた。

なんとなくの感覚で、80%くらいはいつも「大丈夫」と思って過ごしているけど、時々残りの「大丈夫じゃない」20%が顔を出す。というより、その20%を見透かされたみたいだった。この日のkidlutは、そうだった。

面白いことに、こういう「この瞬間!」という感覚は各公演ごとに異なっていた。演目は同じなはずのに、そのときの自分の心の持ち方やそのときの席によって、見るものも聴こえるものもどこか違って感じる。


たくさん入ったからこそわかったことがたくさんあった。見落としたものもきっとたくさんあるけど、その分たくさんの煌めきを見つけた。それで十分だった。

何回通っただとか全通したとか、数字は重要じゃない。ものすごく遠い席もあれば比較的近さを感じられる席もあり、そのたびに見えるものが変わって、その1つ1つが愛おしかった。1回きりのライブにも、何回も行くライブにも、どちらにも良さがある。その「何回も行くライブ」を今回のFOLLOWで経験できたこと、とっても幸せだった。


見えるもの、見えないもの

これは以前にも軽く呟いたけど、同じものを見ているはずなのに人によって受け取り方が全然違う。5万人もいるのだから、見える世界が違うのは当然だと思う。同じものを見て、違うものを受け取って、それぞれがそれぞれに夢を見るのがドームという場所なんだな、と私はようやく気づき始めた。

掛け声にしたって、今日は周りの人もみんな声出してて楽しかったな!と感じて帰ったかと思えば同じ日で「周りの声が小さくて悲しかった」という意見もあったりして、その場で聞こえる声なんてあの広い会場の一部でしかないんだな、と気づかされる。

だからSNSで見る知らない誰かのジャッジを気にするのは辞めた。私に見えないものを誰かが見ているように、私には私の見えた景色がある。


大阪2日目、SEVENTEEN festivalのステージがとにかく楽しく、この日は双眼鏡で綺麗にステージの全体が見えるくらいの距離だったので、ドギョム以外のメンバーも気にして見てみるようにしていた。すると、イマセカの最後で、誰か(たしかミンギュとホシくんだった気がするけど、記憶違いかもしれない)がダンサーさんとアイコンタクトを取りながらすごく楽しそうにしている様子が目に入った。

そのあとのMCでお祝いされたダンサーさんは、その人だったと思う。これも記憶違いかもしれないけど。ただ少なくともあの時の私は、だからあんなに2人とも、あんなにいい表情で一緒に踊っていたのか、と納得してしまった。

誰の意見も否定したくないな、と思う。だから、SEVENTEENだけを見ていたい、と感じる誰かの意見も、否定したくないし、そうなんだねと返したい。だから、あのステージを楽しく一緒に作り上げたであろう彼らが、あの流れでお祝いをしたくなった気持ちも、否定したくない。

意見の食いちがう人たちを見ていると、この人たちは一生分かり合えないんだろうなと悲しくなる。分かり合えないのになぜお互いを否定しあうのだろう。それだけ分かり合えない5万人もの人がいる空間で、正しいも正しくないもなく、ただそこで見たもの、見えたものを信じたい。各々のフィルターを通して見えた各々の偶像がそこにある。あなたにはそう見えたんだね、私にはこう見えました。それだけだ。


時々、知らない誰かの意見に、強い風に押されるみたいに自分の体が持っていかれそうになる。ドギョムを好きな気持ちが揺らいでしまうことがある。そんなのばかばかしかった。먼지と바람개비の繋ぎのパートを、幸せそうに歌うドギョムのパフォーマンスを見たら、これを信じて生きていけるな、と思った。それくらい、眩しくて尊い瞬間を見たと、自分の見たものを信じられる。そういう景色を、SEVENTEENがたくさん見せてくれたから。


魔法の余韻

もう少しで2023年が終わるんだ、と思うとびっくりする。SEVENTEENを追いかけてたらあっという間に一年が終わってしまった。そんな感覚だ。

2022年、ドギョムの歌を生で聴いたのは1回きりだった。なのに今年は、たくさんドギョムの生歌を聴けた。なんたる幸福。

広い会場なのだから、当然私が聴く音はスピーカーを通した音になるわけだけど、それでもドギョムの歌声の「まっすぐ届く感じ」は、桁違いだと思う。いや、私がそういう魔法にかかっているだけかも。

最初の方は、その音圧にひたすら圧倒されていたけど、次第に「ドギョムの歌の余韻」に惚れ惚れするようになっていった。

バラードで自分のパートを歌い終わったあと、マイクを放して、そっと優しい顔をする、あの瞬間。自分が放った歌声が、会場に広がるのを見守っているような、あの表情。歌い終わりですら、魔法の余韻を残してくれる。

その昔、吹奏楽をやっていたとき、「音の入りから終わりまで責任を持ちましょう」と言われたことがある。入りの音程や、最後の音を抜くときの処理。イメージを持って丁寧にやるか、雑にするかで、そのフレーズの印象はまったく異なる。

だからこそ、歌い終わった後にまで余韻を残すドギョムを見ると、胸が熱くなる。何度見ても、どんな角度から見ても、ドギョムの歌う姿が好きだとそのたびに感じる。ステサイから背中を見つめるだけだとしても、光に囲まれて歌うドギョムの姿を見ているだけで、幸せになれる。だからやっぱり、席の位置は関係ない。近い席というのはその「近さ」がプラスアルファされるだけであって、遠さでその席の価値が下がるなんてこと、少なくとも私の中ではなかった。

天国がもしあるならば君の声届くところがすべてその場所

ドームのどんな席も天国にしてしまうドギョムってすごい。お花畑だろうと何だっていいよ。スピーカーを通して体に響くドギョムの歌を、何度だって味わいたい。また何度だって聴きたい。私だけの天国。SEVENTEENTH HEAVENって、そういうこと?



やさぐれた日

8公演中、トロッコに望みを託そうとした瞬間は全部で5回あった。

その全部で、ドギョムは私の反対側を向いていた。背中しか見れなかった。最後の方はもう、トロッコが遠ざかるのを呆然と見るしかなくて、こんなにも運がないのか?とひたすらに悲しくなった。なんでアンコールでこんな気持ちを味わわなきゃいけないんだ……。

私がアリーナにいる日はスタンド側を見ているし、私がスタンドにいる日はアリーナ側を見ている。なんで!どうして!の気持ちでしかない。

別に確定ペンサなんて求めてない。ただドギョムが顔を見せてくれて、誰かにペンサをするところをそこそこの距離で見れたら万々歳なのに。それすらさせてくれない。二分の一の確率に毎回負ける。

大阪で入ったサウチェも楽しかったけど、ペンサがもらえるような席でもなくむしろ「埋もれ」で、私は少しだけやさぐれた。この世にはドギョムにペンサを貰えた、という人が存在するのに、その中に入るどころか、それを目撃することすらさせてくれないドギョムに理不尽に怒った。理不尽すぎる。わかってる、わかってるけど!

仕方がないと言えば仕方がないのだ。アイドルって本当に忙しいな、とアンコールのたびに思う。私が見れなかったペンサは誰かが貰ったペンサで、報われなかったエリアの反対には、報われたエリアが存在する。背中を向けていても、私の反対側のcaratにドギョムは全力でペンサをしている。そこにドギョムペンがいるから。

ステサイのような俯瞰席や、スタンドの高めの先に入ると、つい観客席を眺めてしまう。そのたびに、ドギョムのボードの多さにびっくりする。人気なんだなあ、と、自分だけの大切なバラを見失いそうになる。


「ドギョムがペンサをするところを見ていると、ちょっぴり切ないけど幸せになる」なんて綺麗事は、もう言えない。言えないけど、そこに各々の大切なバラが存在することは、たくさんのボードを見ていたら納得できた。それぞれがそれぞれに、ドギョムという一輪のバラを愛でていて、彼はアイドルとしてそこに愛を返さないといけない。だったら、『星の王子さま』に登場する、地球に咲く五千のバラのように、私は五千のバラのうちの一本でいい。他のバラと何も変わらない、特別でもない、たくさんあるただの花。他との区別はつかなくても、「たまたま目に入った」だけで、彼は一瞬の魔法をかけてくれる。今回は「たまたま」それがなかっただけ。

そう、これは綺麗事ではなく痩せ我慢です。ペンサを貰えた人も貰えなかった人も、caratとしては何も変わらないと、自分に言い聞かせているだけです!!!


私のオーラスとなる大阪最終日、アリーナを向くドギョムの背中をスタンド側から見つめた時は、終わった……の気持ちしかなかった。我儘な自分も嫌になるし、運の悪さを呪うしかないし、なのにこんな気持ちにさせてくるドギョムに対してやりきれない気持ちも出てきちゃうし。エンドレス自己嫌悪。

諦めきれなくて、トロッコが過ぎた後もハングルで「ドギョマ、見える?」と書いたボードを掲げていたら、少し先を行ったトロッコの後ろで、こちらの方面を見たドギョムがこちらの方向に指差しをした。

表情までは見えなかった。手前の誰かに向けてやったと言われれば納得するくらいの距離。だけどオタクは都合がいいので、ここまで報われなかったしちょっとくらい思い込んだっていいでしょー!と都合のいい夢を見ることにした。だって最後くらい綺麗に終わらせたい。


と思っていたら、公演終わりに連番相手から「ドギョム、最後にこっちの方見た瞬間なかった?」と言われてエ?!と声が出た。真相は謎。でも別に私なんて他のバラと変わらない無限にあるバラのたった一本だし(引きずる)、そのくらいちっぽけな存在だし、そこにあまり執着はしていない。だったらいいな〜!くらい。

むしろ、二分の一で背中を向けられるトロッコにあまり期待をしなくなったので、入るべきは埋もれないプレミアムということを強く実感しました(それはそう)

また何回でも追っかけて、奇跡が来る瞬間を掴みにいくからねー!待ってろよー!


面識がなくても踊れるわたしたち

ツアー期間、アイドルって何なんだろうとずっと考えていた。時に「アイドルならこうあるべき」というファン各々の主張が強く聞こえてきて、苦しくなることもあった。

アイドルというのは、人に好きになってもらう職業というか、好きになってもらわないと始まらない職業だから、漠然と怖くなるときがある。めちゃくちゃビジネスの視点で見れば、ファンは顧客だから、顧客相手に不安や怒りを覚えさせるようなことは言えないし、顧客満足度を高めるためには時に相手に求められる振る舞いをしないといけない。好きにさせる仕事、夢を見せる仕事って、じゃあホストと何が違うんだろう……? と考えると、どう考えればいいのかわからなくなる。恐ろしい。

上を向けば向くほど、恐ろしい世界が広がっている。こわい。一体どのくらいのお金をかけてこの人たちは彼らを追いかけているんだろう? という人が、存在する。

何度も何度も、自分の在り方がわからなくなったり、どう折り合いをつけるべきなのか考えたりした。日本のオフイベは一つの救済措置だと私は思っているけど、それにすら物足りなくなってしまったら終わりだから、オフイベについて悶々と考えたりもした。

これについては深く語る理由も意味もないと思うから、このくらいにする。ただ、アイドルという現実と、本当と嘘と、色々なことにどう考えればいいのかわからなくて、そういう話を誰かにするわけにもいかず、思考しては疲れていた時期があった。


そんなときに、「君と僕は面識がなくても踊れる」という歌詞が目の前に現れて、私は本当に嬉しかった。

もうこれが答えだ。私とあなたは面識がなくて、赤の他人だけど、でも一緒に音楽を聴いて楽しい時間を共有できる。そして私は「ライブ」という場所でそれを心から実感した。

何回ライブに行っても、彼らから見た私は名前のないcaratで、はじめましての相手だ。だから私は何度だって「はじめて」の顔で彼らに会いに行く。オフイベも同じ。

昔から何回も聴いていた音楽が、
突然色を変えるという現象にも立ち会えました


また次も、何回だって、初めての顔で会おうね。愛おしい人たち。


泣きたくない

自分の心の状態があまりよろしくなかったとき、好きなアーティストのライブや応援している人のパフォーマンスを見て、ぼろぼろに泣いた経験がある。

あのときの「泣く」という行為は、自傷行為に近かった。涙を流すことで、自分がしんどいことを実感していた。しんどさを証明しようとした。自分を試した。「ここで泣くほど苦しいんだ」と、自分に言い聞かせたかった。


だからこそ、私はSEVENTEENを見て泣きたくない。

感動で涙を流すことは素晴らしいことだ。でも私は私自身を、きっと認められない。SEVENTEENを見て泣けたらそれだけSEVENTEENを好きだってことだよ、と自分の涙を感情のメーターにしてしまうと思った。何かを証明するための涙なんていらない。涙を使わずに、自分の感情の動きを、ちゃんと拾ってあげたい。

実践するのは大変だった。ここで泣けたら気持ちいいだろうなあ、とまた己を俯瞰した。泣かないと決めたのは自分なのに、涙を流せない自分は、愛が小さいのではないかとまた自分で自分を疑った。きっと私は、自分を信じる気持ちが不足しているのだろう。


大阪最終日。福岡に行けない、配信も見れない私は、正真正銘この日が「最後」と思って、ライブに行った。

あれだけ泣きたくないと思ったのに、먼지と바람개비の繋ぎで、何かが溢れた。kidlutのみんなで歌いましょうのパートは、歌えなかった。大声で一緒に歌いたかったのに、気持ちが溢れて、声を出せなかった。VCRに入って、隣の人にこいつ泣いてると思われるのが嫌でこっそり涙を拭った。

この日の終演後BGMは、Campfireのインストだった。LOVEのときに頑張って覚えた韓国語の歌詞が、自然と口から溢れ出た。

のわねが、はむっけうりが、かちとろあんじゃ、そろえぱらぼるっか。

まだこれをハングルで脳内再生できるほど、韓国語に通じてないけど、歌い出しのここまでのフレーズをさらっと歌えた。君と僕が、一緒で僕たちで、一緒に座って、お互いを見てみよう。たしかそんな意味だよな、と思い出しながら、歌えるところを小声で歌った。ああ、私のFOLLOWが終わったんだ、と思ったらまた泣きそうになった。

いつもいつも、気持ちを先取りしてしまう。こういう状況だったらきっとここで泣くんだろう、ここで泣くのがベストなんだろう、とか感情を先取りして、そのときの感動を損なってしまう。だから泣きたくなかった。でも、このCampfireは予想外の出来事で、まさかこんなところで泣かされるとは、思ってなくて。


ああ、これが「素直なわたしの気持ち」なんだ、と思ったら、なんだか嬉しかった。泣くくらい自分は感動したんだぞ、と自分自身に言い聞かせるための涙なんかじゃなく、誰かに証明するためのものでもなく、ただ溢れた涙だった。そう思えた。そう認められた。そんな思い出を、SEVENTEENが与えてくれた。だから私は、どんなに夜が明けても、月明かりが消えても、また一歩を踏み出せる。



それぞれの愛のかたち

メントにはそれぞれの愛のかたちがよく現れると思う。

ライブという非日常で、私たちの日常について言及してくれる人。シンプルな言葉に、限りない愛を込めてくれる人。韓国語でその時その瞬間の気持ちを伝えてくれる人。どの公演に入るcaratにも平等に接してくれる姿勢の表れなのか、内容を大きく変えずに、伝えたいことをきっちり伝えてくれる人。


その点で言えば、私はドギョムのメントが好きで好きでたまらない。

ドギョムは、比較的毎公演ごとに話す内容を変えて、しかも日本語で用意をしてくるタイプだと思う。

ドギョムを見ていると、準備することは一つの愛だな、と感じる。その地方の方言を事前に調べてくること、話すことを事前に考えて、日本語のメントを読む練習をしてくること。カンペを見つつも、大事な部分はしっかりカメラを見て伝えてくれること。あたたかい言葉を、丁寧に日本語で伝えてくれること。全部が全部、当たり前じゃない。だから、ドギョムの言葉そのものに対しても有難いし、その言葉を用意してきた過程にも愛おしさを感じる。

DKタイムだってそうだ。東京公演のとき、ミンギュに「夜中までこれ考えてました」ってバラされてたね……。一緒に考えてくれてありがとうミンギュ……(誰目線?)。あのとき、「これ実はすごくプレッシャー…」と呟くドギョムに、やっぱり今回のツアー、重要ポイントたくさん任されててプレッシャーも大きいよね?!の感情になった。それでも毎公演、みんながくすっとなるポイントを提供してくれるのは、ドギョムの準備と頑張りが根っこにあるってこと、忘れないでいたい。

大阪ではディノちゃんがGood to meのダンスブレイクのことを、「かっこいいですよね?!」と言及してくれて嬉しかった。そこで「いやいや、まだまだです」と謙遜するドギョムは、意味がわからなかった。十分に!!!!!!!かっこいいが!!!!???!!!!

あのダンスブレイクも、ドギョムにとっては修行中のものに当たるのか、と思うと痺れてしまう。まだまだ良くできる、と思える向上心がすごい。たくさん準備してくれてありがとう。


準備という種類の愛に気づけたからこそ、私もたくさん準備をして、背筋をのばした状態で彼らに向き合いたいな、と思う。

うちわデコやボード作りは、自己満足と言われればそうなんだけど、でも、ライブ前にあれをやることで「ライブに行くんだ!」という気持ちが高まる。これも一つの準備だから、私自身がベストなコンディションでライブに臨むために、これからもやってみたい。いきなりすごいことをやる必要はない。この間はこうしたから、次はこうしてみようかな、その繰り返し。そうしていたら、何にもできなかった自分でも何かができるようになる。

掛け声もそう。あれは覚えないと出来ない。練習しないと出来ない。東京ドームでは余裕がなく、あまり時間をかけられないまま参加してしまったけど、埼玉以降はもっと準備をしたうえで参加できた。この準備だって、疎かにしたくないな。

時間をかければかけるほど、大切にすればするほど、自分のなかの気持ちが大きくなっていくようで、だから愛は育むものなんだな、と気づかされる。土を整えて、肥料を与えて、水をやる。でも土づくりも肥料も、いつも彼らからもらっているような気がする。


ドギョムが稀にcaratの動画を見る様子を発信してくれるのは、同じく過程に愛を感じるからだろうか?なんて言ってみる。ピザを作ってる動画とか、センイルカフェを準備する動画とか、「自分のためにこうやって時間をかけてくれてありがとう」みたいなニュアンスを感じる。勘違いでも何でもいいけど。

私の準備はドギョムに届かせるようなものでも何でもないので、知ってほしいとは思わないけれど、私が、私自身が背筋をのばして彼らに会えるように、これからもたくさん「準備」をして、心構えをして、彼らの愛に向き合いたい。


大阪の最終日、トロッコとサウチェとハイタでやさぐれてた私を、ドギョムはたった一言「僕たちのファンになってくれてありがとうございます」のメントで吹き飛ばした。敵わない。ドギョムが用意してくれたものに、私はいつも敵わない。だから、私も私なりに準備をして、これからもあなたの姿を見に行くね。いつも最高の姿を見せようと時間をかけて、愛を注いでくれて、ありがとう。


余談

福岡をノータッチで過ごす予定だったので、大阪最終日でFOLLOWに踏ん切りがつけられるかすごく心配だったが、「まるでオーラス」のような楽しさで、何も後悔がなかった。連番した友人にそれを話したら、「ホシくんはいつも『これが最後のステージ』と思ってるからね!」と言われた。ありがとうホシくん……!実際、あの日のイマセカの雄叫びは最高だった。


翌日、大阪から帰って最寄り駅に着いたら、駅の目の前のセブンイレブンでSEVENTEENが出迎えてくれた。それだけでまた泣けてきた。終わらない夢があるならきっと彼らのことだと思う。


福岡はなんやかんやあり、オーラスの配信を見れることになった。ソウルコンのときは配信でもあんなに楽しかったのに、また配信に帰ってきた日本最後のFOLLOWは、全然物足りなかった。だって私は現地のあの歓声も、体に響くサウンドも、炎の熱さも、そこで感じられることを知ってしまった。ずいぶん贅沢な経験だった。同じ場所に戻ったと思ったら、まったく別のところへ進んでいた感じだ。

それでもSEVENTEEN festivalのパートは配信でも最高に楽しかった。あの楽しさはきっと万国共通。アンコールのRun to youはやっと歌詞を味わえたと思う。目の前にいないからこそ、「いつかまた会おう、その日まで元気に過ごさなきゃだめだよ」の歌詞が沁みた。


何も変わらない毎日なのに、気づいたらSEVENTEENのおかげで新しい世界へ進んでいたようだった。「僕らについてきて」って、そういうことだったのかも。色んなものが見えて、色んなことを感じて、いつのまに知らない自分に出会えたり。2023年、素晴らしい年だった。





会ってくださったみなさんへ

まずは本当にありがとうございました。誰かとお会いすることは、私にとってはすごく勇気を出すことで、みなさまが寄り添ってくれなければ叶いませんでした。実際、私からお声がけしたものはあまりなくて、この日にいます!と言う私に「お会いしたいです!」と言ってくださった方とお会いしていたのが殆どでした。ありがとうございました。

人と接することは、私にとってはいくつになっても難しいことです。人の印象なんて、いくらでも変わります。好ましい人からされることと、あまり好きではない人からされることでは、同じものでも後者の方がきっと随分と印象が違うでしょう。だから私は人と接することがいつも怖いです。何かを間違えて嫌な印象を与えてしまったかも、とか、距離感を間違えてしまったかも、とか、すぐに考えます。そうして、そうやって悩むくらいなら最初から「ない」方が楽だ、となって、また殻に引きこもります。

殻に引きこもっていた私に、一歩外に出る勇気を与えてくれてありがとうございます。ソンムルというのはどう用意すればいいのかわからないまま、お菓子を渡してしまいましたが、次はもう少し「準備」をしようと思います(もちろん次があればの話ですが…)

いただいたお手紙にはどれもたくさん力をいただきました。私は「認証ショット」というものを出すのが少し苦手で、ここまで写真などはあげていませんが……遠征先から帰るたび、いただいたものを並べて写真を撮りました。並べるたびに幸せになりました。夜行バスの帰りの朝などはそれだけでとても元気が出ました。

こうして「みなさま」と相手をぼかしてお伝えしてしまっていますが、もし機会さえあれば個人としてまたお話できれば幸いです。