많은 사랑 가르쳐줘서 고마워
年に一度のセンイルでも、伝えたいことは変わらない。사랑해요と항상 행복하세요、ドギョムに伝えたいことは、この2フレーズにすべて収まってしまう、と思う。なぜなら、自分の気持ちを自由に表現できるほど、韓国語に慣れていないから。不自由な言語で表現しようとすると、自ずと簡単なフレーズを使うほかなくなってしまう。だから、どんなに想いが募っても、私の気持ちは사랑해のワンフレーズにぎゅっと濃縮される。
それでいい、というより、それがいい。遠い遠いところにいるアイドルを私は応援している。彼を「好きだ」と思うだけで、平凡な毎日を繰り返す活力が湧く。
作家の小野正嗣さんという方が、『歓待する文学』という本で、とある小説を紹介していた。イーユン・リーの『千年の祈り』という小説だ。
『千年の祈り』の主人公は、元ロケット工学者の中国人。彼は娘の住むアメリカを訪れ、しばらく過ごしているけれど、英語が堪能ではない。公園でイラン人の老女と会話をするときは、お互いに拙い英語でやり取りし合う。その会話は、日本語訳だとこんな感じ。
そもそもイーユン・リーは自身の母語ではない英語でこの小説を書いている。それゆえ、『千年の祈り』を語る小野正嗣さんの話も「外国語と母語」がテーマとなる。
この部分を読んだとき、「そうなんだよ!」と思った。Weverseに慣れない韓国語でメッセージを投稿するとき。いくら翻訳アプリが発達しようと、意図していない言葉を投げかけてしまうくらいなら定型的な文章の方がよい。そんなとき登場するフレーズは、なぜだか「私の気持ちを素直に表現したものである」と思える。大好きも愛してるも幸せでいてねも、日本語だとなぜだか物足りない。欲張って、もっと饒舌に語ってしまう。ときどき自己嫌悪に陥る。でも、韓国語なら사랑해に気持ちを託せる。というより、託すしかない。
사랑해、という言葉がずっと軽くて日常的な言葉だとしても、どこかで私は、そのくらいの軽さがいいと思ってしまう。ドギョムを大好きな人はこの世界にたくさんいるから、多分そのくらいがちょうどいい。単体では小さな言葉だとしても、世界中のCARATがみんなでたくさん伝えれば、塵積も論で大きな言葉になる。でしょ?
Weverseに投稿する慣れない韓国語メッセージは、抽出されたコーヒーみたいなものだ。逆に、こうやって「わざわざ」書く日本語のお気持ち文章は、ドリッパーに残ったコーヒー粉。
豆をミルで挽いて、セットして、お湯を注ぐ。お湯がゆっくりとドリップ内を通って、コーヒーになる。韓国語の拙いメッセージは、抽出されたその先にある完成品。相手に見せるのはそれだけでいい。
だけど、丁寧に挽いたコーヒー豆がないとコーヒーだって生まれないんだよ。コーヒーになれなかった、コーヒーを生み出すのに必要不可欠な、ゴミ箱に捨てるしかないコーヒー粉。
韓国語に表せずに捨てるしかないこの「日本語」の気持ちを、センイルだからこそ書き残したい。それが、今年のセンイルnoteの意義。
まえがきだけでずいぶんと書きつらねてしまった。
センイルnoteってなんだろう、そんなの自己満足じゃん、だって書いたって何も相手には伝わらないじゃん、そんな自戒の言葉がぴしぴしと頭に流れ続けるので、頭の中にいる敵を跳ね返すためにここまでのことを書きました。伝えるための言葉は他にあるんです!はなから伝えるためのものではない言葉なんです!これは!!
というわけで、私なりの「ドギョム考」を少しだけまとめてみた。センイルって、みんながその人の話をしてくれるから世界がいつもより優しくなる。だからこそ声高にドギョムの話をしよう。誰かの世界が少しでも、優しくなることを祈って。
最後までチョコたっぷり
な人だなあ、と思いますドギョムは。
この日は19:05にWeverseにやって来て、このコメントをしたのは19:33。このメッセージを見たとき、19時半という時間になってもドギョムには「残りの一日」がまだ見えているんだと痺れてしまった。
私は一日の終わりが近づくと、ほんの少し憂鬱を被ってしまうような性格をしている。今日が終わってしまう、という焦燥感。なにもできなかったな、なにも変われなかったな、とないものばかりを数えて落ち込みがちだった。
19時半。あと4時間半で今日という日が終わってしまう。「終わる」ことに意識が向いて、4時間半という時間を「意味のないもの」と、捉えがちだった。でもちがう。4時間半という、楽しく過ごす時間がまだ残っている。ないものが見える。そこにある。
「残りの一日も楽しく過ごしてください」
たった一言。定型的な言葉だとしても、君に言われるとこんなにも見える世界が輝く。それはきっと、君に出会う前の私には見えていなかったものが、君の言葉を通して見えるようになったから、だね。
もう一つ。こっちはクリスマスの投稿。
23:10に滑り込み投稿されたものだから笑ってしまった。
23時を過ぎても「まだクリスマスだよ」と言うのが、先日の「残りの一日も」に重なって嬉しかった。もうクリスマスも終わりかあ、と寂しくなる気持ちを見透かされたみたいだった。
大変な一日も楽しかった一日も、最後まで生き抜く力をドギョムは与えてくれる。そんな最後までチョコたっぷりのお菓子のようなドギョムが大好きだ。
準備は愛
準備することは一種の愛。ツアーを見て一番に感じたことだった。
「だもんで」や「知らんけど」のように、その土地に合わせて変えてくれる日本語のボギャブラリー。丁寧に話してくれる異国語のメント。ただでさえ活躍するシーンが多くて大変だろうに、その見せ場ですら日本語でこなす。夜中まで考えていたというDKタイム。
ドギョムがやっていることは、表に出ない時間を感じさせることばかりで、その「見えない時間」に私は途方もない愛を感じる。
韓国のアイドルを応援していると、海外コンサートに行くことが一種のステータスのように感じる瞬間があるけど、私は日本で行われるコンサートが好きだ。あんなに外国語を喋ってくれて、寄り添ってくれて、外国で開催する分の「準備」をしてくれるから。
FOLLOW TO JAPANでは、名古屋3日目と大阪初日で話していたメントがとくに好きだった。
「耐えて」という言葉にどこか馴染みがなく、すごいことを伝えてくれるんだなあ……と印象に残っていた。しばらくして1月1日。2024年の幕開けに、ドギョムはWeverseでこんなことを伝えてくれた。
これを読んだとき、メントを聞いたときの謎が解けたと思った。
きっと、「잘 버텨주고」という言葉を伝えたかったのだろう。それが日本語に訳され、「よく耐えてくれて」というフレーズになった。
あれは正真正銘ドギョムが準備してくれた言葉なんだ、と感じた分、重みが増した。コンサートの終盤に何を伝えたいかと考え、文章にし、それをスタッフさんに訳してもらう。訳してもらった日本語を読めるように練習する(SONGSではLOVE大阪公演前にメントを読む練習をするドギョムの姿が見られた)。最高の時間に最高の言葉を伝えてくれるだけでも嬉しいのに、その言葉が伝えられるまでの過程にも、愛おしさを感じる。
準備は愛。
年が明けると真っ先に長文メッセージを投稿してくれたドギョム。きっとCARATに伝えたい言葉を前もって準備していたのだろう。
準備は愛。
CARATの誕生日にケーキを用意してくれたドギョム。ジョンハンさんにからかわれたと思ったのか、「一生懸命準備したのに、なんでなんで」と可愛らしく返していたね。準備してくれてありがとう。
ドギョムが「준비」してくれた愛に向き合えるように、私も自分の心をよく見て、内省して、準備をしてまなざしていたい。
時に「ポエマー」と蔑まされるこの「お気持ち」もまた、センイルまでの準備だった。センイルまでの時間も、ドギョムのセンイルだから大切にしたかった。ドギョムを好きでいると、自ずと大切にしたい時間が増えていく。こんなにも大切なものばかり、もらってばかり。
大切にする、ということを教えてもらったと思う。それはドギョムがCARATを大切にしてくれるから。お返しのように、私もドギョムを大切にしたい。面識もなく遠くにいる相手だからこそ、ドギョムが存在する世界や時間そのものを大切にしたくなる。アイドルを好きになるって、きっとこういうこと。
あたり前をあたり前に
幼い頃に何度も見た映画に、「ティガー・ムービー プーさんの贈り物」がある。
おなじみ「くまのプーさん」の長編映画で、主人公はトラのティガー。いつも「世界一のトラはおれひとり」と高らかに歌っているティガーだけど、この映画では突然「ティガーはおれひとり」であることに気づいてしまう。この世界のどこかに、自分によく似た、そして自分をわかってくれる家族がきっといるはずだ、と信じたティガーは、家族探しに奮闘する。そんなティガーにプーさんたちは「ティガーの家族」の代わりとして、こんな手紙を書く。
大人になって、SEVENTEENに出会って、ふと突然、幼い頃に見たこの映画のことを思い出した。この手紙に込められている「愛」は、いつもSEVENTEENが伝えてくれることだったから。
でも、まだ幼かった昔の私は、この言葉が「愛」を示す言葉だとよくわかっていなかった。定型的な言葉のような感覚。暖かくして、よく食べて、体に気をつけて、いつも笑顔で、いつもそばにいるよ。ありふれた、ありきたりな言葉。だから特別さも感じていなかった。
「愛」という言葉がむしろ苦手だった。コロナが流行り始めた自粛ムードの頃、テレビで「必ず最後に愛は勝つ」というCMが流れるだけで寒気がした。綺麗事がきらいだった。目の前にはもっとどうにもならないことがあるのに、愛なんて薄っぺらい言葉で片付けないでほしかった。
なのに、どうして。いつのまに「愛」という言葉を信じられるようになったのだろう。
ドギョムという人を知って、Weverseというものがあることを知って、よくわからないままアカウント登録をした私のもとへ最初に届いたドギョムのメッセージは、とんかつと冷やしそばの投稿だった(2022.9.13)。「CARATたちもちゃんとご飯食べようね😋」のコメント付きで。
「ご飯食べましたか?」が韓国では挨拶として使われるということを、まだその時は知らなかった。でもその風習を知ってからも、ご飯のことを言われると、いまだに心があたたかくなる。
文化というものは、「知る」と「馴染む・根付く」では途方もない壁がある。だから、ドギョムが実際に言っている言葉のニュアンスやその背景は、きっと一生をかけてもわからないのだと思う。だけどその文化の壁のおかげで、私は「美味しいものを食べてください」「ご飯をたくさん食べてください」から溢れ出る優しさに、何度聞いても心があたたかくなる。
「ちゃんとご飯を食べて」
たかだかご飯の言葉。なのに、ドギョムにこれを言われてから、私はこの言葉に「愛」を見い出せる。ドギョムが言ってくれたから。ドギョムが発した言葉だから。
2022.10.16のWeverseも衝撃的だった。「CARATたち、何をしていますか〜?」から始まる一連の投稿。そのなかで、ドギョムはこんなことを言っていた。
「행운을 빌어 줘」のビハインドではこんなことも。
ドギョムがくれる幸せは、ドギョム自身の幸せのお裾分けみたいで、だからこそあたたかい。ドギョムの「幸せになってね」にはドギョム自身の幸せがちゃんと含まれている気がする。安心する。誰かの幸せを祈るというより、「一緒に幸せになろう」と語りかけられている感じ。
「自分も幸せだから、みんなにも幸せでいてほしい。」
綺麗事のような言葉。昔の私だったらまっすぐ受け取れずに聞き流していたかもしれない。でも、ドギョムが伝えてくれたこの言葉は、「綺麗事」の「きれい」の部分をまっすぐに教えてくれた。
「くまのプーさん」の手紙にこめられた愛に気づけたのは、きっとこのおかげ。定型文にしか見えなかった単語が、とつぜん彩りを持って見えたのはこのおかげ。
この世には、綺麗事は綺麗事だと一笑に付す人がもちろん存在していて、そういう人からしたらドギョムの言葉も私の言葉も、ただの「綺麗事」にしかならない。そして過去の私はそちら側の人間だった。
アイドルの営業フレーズ、なんて片付けてしまえば簡単だ。たかがアイドルの言葉。たかが、
たかが?
見えない誰かに否定されるのを怖がって、「たかが」と好きなものを卑下するのはもうやめよう。綺麗事だから何だというの。綺麗事でも、「きれい」なのは事実だ。揺るがない。揺るがさせない。
相手を思いやる言葉。彼らから飛び出す言葉の数々は、あたたかく、優しく、そして美しい。愛がわからなかった私に愛を教えてくれた。当たり前のように存在する定型的な言葉にも、ちゃんと意味があることを教えてくれた。君が、私にとって特別な理由。
センイルって何だろうとたくさん考えた。大好きな君が生まれた特別な一日。
2月18日。特別な「今日」が始まる。大切にしたい。
生まれてきてくれてありがとう。
世界が美しいのは、君が愛に溢れているからだ。