見出し画像

【歴史】名取老女と信夫佐藤氏 笛を吹く少年とは?

この前、藤原国衡が討ち取られたという「馬取田」へ行き、
そこで「高館黒」のことが気になりました。

藤原国衡は、藤原秀衡(奥州藤原氏3代目)の長男。
藤原泰衡(四代目)とは、異母兄弟になります。

藤原秀衡(奥州藤原三代目)

奥州合戦で、阿津賀志山(あつがしやま)の戦いに
総大将として参戦するも、戦死した人です。

場所は、大河原町金ヶ瀬(かねがせ)奥州街道沿いに発展した宿場町でした。当時は、賑わいがあったと思います。

金ヶ瀬付近

ここには、板碑石碑群も残されており、古いものでは
1318年の碑は、柴田郡内で最古のものと。

1321年頃の板碑

板碑は武蔵に多い供養塔。
特に秩父産の緑色片岩を加工して造られる事が多い。

薬師堂(大高山神社の別当寺だった)

馬取田について

「文治五年(1189年)頼朝の奥州攻めによって平泉軍の主将藤原国衡に肉薄(相手に迫る)したために、国衡の乗馬が驚き深田にはまったと。

身動きができないままに国衡は、畠山軍の大串次郎に討ち取られ、
乗馬は捕獲された。
※大串次郎重親(武蔵七党のひとつ、横山党)

以来、この地を「馬取田(馬捕田)」という。
国衡の馬のことを「高館黒」といい、背の高さ4尺9寸、奥州一の名馬であったと伝わります。

里人が、この地に塚を築き、冥福を祈り、
永年耕作することはなかったそうです。」

馬取田

この「高館黒」というのは、「たかだて」か「たかたて」と読ますのか、
平泉の義経堂も「高館」名取の高舘(館)と同じ。

名取熊野三社には、たくさんの熊野別当がいましたが、
『吾妻鏡』に登場する金剛別当秀綱、という人の存在。
この別当が、義経や国衡の保護をしていた話があります。

※「秀」の名をつけているので、藤原秀郷の系譜を示しています。

名取の文献(熊野堂今昔風土記)や『吾妻鏡』にその名がみえる。

馬取田と同じ年のこと、名取の熊野ではこんな話が。

高舘山

「奥州の領主藤原泰衡及び源義経追討の為、
文治五年(1189年)頼朝公奥州に下向せらる。
義経と泰衡の手配を以て、名取熊野別当の館に置けること
鎌倉に聞こえければ、頼朝公直ちに来て鷹舘の麓に陣をはる。

これに於いて義経、片岡八郎壱人を残し置き、
主従共に蝦夷ヶ島に落ち行きたり。
八郎は熊野別当に擬して居りしに、鎌倉勢に生捕られ、
阿津賀志山の陣所に囚に置かる。

後特赦を蒙り、名取郡司・熊野別当金剛坊秀綱・出羽の佐藤庄司等
と共に本国に帰される。
佐藤庄司は、入道して熊野を信仰し、飛鳥の社に一両年山籠せり」

片岡八郎壱人という名は、吾妻鏡にないが、
「片岡太郎常春」の他、片岡八郎の名は散見されます。

信夫佐藤氏が高舘山に籠ったという話、これが義経の場合もあるのです。

黒崎とは、「黒石平のこと」とある。
大館とは別の城跡の可能性も指摘されていますが、
同一の説もあり、熊野堂山林の中心とみなされ、共有林だったそうです。

特別に扱っていたと思われる黒崎は、源義経が隠れた所で「義経九郎」と号した故に、九郎崎→黒崎になったという言い伝えがあります。

また、それが義経ではなく、熊野別当の金剛秀綱である話も。

いずれにしても、国衡と信夫佐藤氏、
そしてもうひとり、大河原で亡くなった「照井高直」も。
※韮神山で討ち取られたと言われる。

共通するのは、奥州藤原勢、義経と藤原秀衡とその主従関係をもつ人たち。

伊達郡に伝わる名取老女

以前、医王寺へ行った時に、地元の方からお聞きしたこと。

飯坂町から西へ進んだ茂庭地区に「熊野神社」がありました。

信夫佐藤氏の母である佐藤庄司基治の妻が信仰していたという話。
山形から福島へきています。

佐藤継信の母乙和の方について、名取にも話があるよ、
と教えて頂いたこと。

「詳しいことはわからないけど、佐藤庄司基治は
討ち取られていない話もあるんだよ」と。

確かに、角田には佐藤氏についた家の裏手に名取老女が休んだという熊野神社がありました。(阿武隈川沿い)

それは、こんな信仰から見えるのかもしれないです。

「伊達郡信夫之里の人々は、熊野山に着き三所権現を祈った」
※『名取の古文書 第六集』(名取市古文書を読む会)より

笛を吹く少年のこと

また、金ヶ瀬には「笛を吹く少年」の伝説があり、
「お笛田」という地名としても残されています。

「むかし、金ヶ瀬村の赤坂というところに、真野という長者が住んでいた。この長者の家には、体が非常に大きく、力も他の2倍はありそうな牛を1匹飼っていた。」

という始まりから語られる牛と少年と笛。
この少年はよく働くのですが、笛を残して亡くなります。

この笛吹き物語は、遠野の「笛吹峠」からすると、継子のいじめがあると言われ、継子は、「ままこ」といって血のつながりがない子のこと。
もしくは、正室ではない子なので差別を受けていた子のことをいう。

それが争いになり殺害になったというのは、笛吹き少年とは、奥州藤原氏の家督争いに巻きまれたことも伝えていると考えられます。

牛と少年の話は、牛頭天王の渡来系神話に基づくものではありますが、
『大河原史』に、その笛には菊花紋があり古木の洞中にあったと。

開田の際に発見され、用明帝が山路の名を変えて牧童となり
笛を吹けば、猛牛も馴養できたと、後に伝説になったもの。

年代は不承ですが、その由来としているのかどうか、
その高貴な笛というのは、大高山神社の由縁ですと「用明天皇」となっているのです。

大高山神社の主神の橘豊日尊=「用明天皇」が由縁になっており、
橘豊日尊であった頃に、大高山へきており、
聖徳太子がその縁をもっているため、太子信仰があります。

蔵王山の麓であるため、後にヤマトタケルの白鳥信仰と
合祀され、「白鳥大明神」とされました。

しかし、この白鳥大明神は、石巻の真野でみれば、阿部氏が祀る氏神に合祀されています。
柴田町の蔵王麓ではヤマトタケルの白鳥信仰がありますが、阿部氏ということであれば、この場合の白鳥は、物部氏では?
「白鳥十郎長久」のように。

石巻真野「零羊崎神社」
氏神を祀るのは阿部一族。

そのお笛田の金ヶ瀬には「真野の長者」伝説があり、真野は石巻にも存在。

そこは、中世、(熊野水軍が)北上川をつかって平泉に常滑焼の陶器などを瀬戸内海から輸送していた所です。

おそらく、「真野」から「金鉱脈」をもつ地主を指していると思われ、
秋田県鹿角の吉祥寺は、藤原国衡が庇護しているお寺です。

吉祥寺

古くから鉱山資源が豊富な所なため、「はぶりの良い長者がいた」と地元ではよく伝わっているのです。それは、藤原基衡の性格ともよく似ています。

秋田県鹿角の「大日堂神楽」は村々で舞を行う。
中でも黄金色のマスクをしているのは
金がとれたことを意味するもの。

しかも、大日堂がある小豆沢には「笛吹田」の屋号があるのです。

「かつては、神社から田んぼを分け与えられており(田の神)
そこから「笛吹田」の名がついたものと言われます。

「八幡田」「鼓田」などの地名も残っており、
舞楽が土地の生活と信仰に強く結びついていたそうです。

大日堂舞楽は、小豆沢の笛を合図に始まると言われます。

号令の代わりに笛が次の動作を導いていき、
いわば雅楽の進行役であるとされます。」

この意味は「笛の音楽」=芸能のことをさしますが、
都の皇室、貴族文化が入っているのではないかと思います。

鹿角の吉祥姫は「継体天皇の皇后」であり
「だんぶり長者」のこと。
五番目の皇子から「五ノ宮岳」という山がある。

また、笛吹きの話に「用明天皇」とありますが、名取にもあります。

奥州三十三観音第3番札所である桑島山金剛寺(熊野山新宮寺)
別名川上観音堂と称し、増田川に架かる観音橋のそば。

ここも、金ヶ瀬の大高山神社と同じ「用明天皇」の頃に御堂を建てた由縁です。

聖観音像を祀る

藤原国衡は、西木戸とも称され「西の木」とは、
「錦」でもあったかもしれません。

また、羽黒講と関わりをもっていた高舘山であるため、出羽へ逃れようとしたのは、金ヶ瀬にも阿胡耶姫(あこやひめ)が清水をみつけた、
「松の木の精霊」である異類婚の話は、山形県の万松寺です。

このあこや姫も継母のいじめの話であり、家を追い出されたあこや姫は、炭焼き小屋の人に助けられます。その炭焼とは「金売吉次」とも言われるのです。※名取道祖神の話と同様。

東北各地に残る落馬説は、隠語とも言われます。
あこや姫は、琴が上手。「コトヒキ」という霊を下ろすイタコでもあり、
その霊は「笛が上手な少年」なのです。

藤原実方と同様、あの世とこの世の分岐には
塞神として巫女伝承を置くものです。

名取老女は、巫女さんになっていますが、
奥州合戦で散った平泉軍らの奥方への祈りでもあります。

馬取山


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?