閖上「いかり祭り」のこと
新宮の本殿隣に、錨の図がありました。
以前は錨だけあったのですが、看板が新たに設置されていました。
宮城県図書館所蔵の領内祭集の一つに閖上浜錨祭絵図があります。
図の解説によれば、
安政年間(1854年~1859年)以前から
閖上浜では大漁を祈願し錨を供養する行事があり、
後に閖上浜の大祭としたとされています。
錨祭ついては、いつ頃から始まり、いつ頃まで行われていたかなど詳細な記録や文献が確認されず正確にわかりませんが、
現存する絵図からある程度当時の祭を知ることができます。
錨は明治以降になって、一つは熊野堂の熊野神社へ、
もう一つは愛島小豆島の清水峰神社へ奉納されており、
熊野神社の錨は現存しますが、清水峰神社の錨は
太平洋戦争に提供され無くなってしまいました。
このように熊野神社にある錨は、錨祭の主役的な
役割を担った道具であり、現在は廃れてしまった伝統行事に
関連する貴重な民族資料となっています。
また、『閖上の歴史の一端をひもどく』大脇浜七著によると、
この図は、伊達綱村が年二回ほど、閖上の浜にやってきた時、閖上浜の人々が「錨まつり」を藩公にご覧に入れたものであると言われています。
綱村公は、領内漁業の大漁を祈願し、盛夏にいかり(いか里)の供養を行ったことがゆりあげ浜の「いかり祭り」になったと言われます。
この絵と同じものが、閖上漁業組合時代に画家に書写されたものが現存しているそうです。
この「いかり祭り」は、昭和の初め頃まで閖上にありましたが、
その後、「閖上港祭」に変わりました。
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