![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/99351918/rectangle_large_type_2_a01f8e43281fba95e006b3de8590b4e1.jpeg?width=800)
【紀州】熊野本宮大社旧社地「大斎原」の音無川
和歌に多く詠まれる「音無川」
名取老女が勧請した由縁では、名取川を熊野川に模している。しかし、芸能の世界では、音無川としたい理由があった。
名取川を音無川と模した理由は、大斎原による。
つまり、「禊」のこと。
国立能楽堂にて開催された(2016年)
復曲能「名取ノ老女」より、
長年途絶えていたものを東京国立能楽堂が、
「復興と文化」と題して約130年ぶりに復活させた。
復曲能のために作成された部分もあるが、
歴史というより能から生まれた芸能であり、
名取老女が文化であることを物語る背景を考察すべき内容である。
![](https://assets.st-note.com/img/1677818377247-GjG8JNHGjG.jpg)
なぜ、名取老女が能になったのか。
その謎を解く鍵のひとつ、能の「シテ」は亡霊であること。
つまり、亡くなった人が主人公であり、
ワキがそのシテの声を聞いて供養を行うといった形式がとられる。
その特徴を考えると、名取老女は、
亡くなった人たちの姿に変え、あるいは、代弁してきたと思う。
熊野の浄土思想、末法の世、
1120年~1123年という縁起年代を考えれば、
多くの人が金採掘に従事してきた陸奥開拓の歴史が
長い間、営まれてきた時代である。
平泉の浄土思想には、金と関わってきた歴史があり、熊野信仰が寛容であるが為に、すべての罪を許してきた名取老女という巫が見えてくる。
名取熊野本宮縁起
能に登場する音無川は、能の「下歌(さげうた)」の部分、
老女が
「ここは名を得て陸奥の、名取川の川上を、
音無川と名を変えて」
と、名取川の「川上」を音無川であるとしているので、
名取熊野本宮縁起には、それを象るために音無川を置いている。
![](https://assets.st-note.com/img/1677818446948-Dg15rQFfs9.jpg)
禊となる音無川を名取川と合流させ(通して)
熊野三社の参拝を促していることにある。
![](https://assets.st-note.com/img/1677818475326-GRgyZTVA6i.jpg)
名取熊野本宮の縁起によれば、
1120年(保安元年)四月八日に創建。(鳥羽天皇の御代)
名取川を紀国の熊野川に見立て、社地の前を流れる小川を音無川に
象り、熊野坐大神の鎮り坐すにふさわしい地とした。
元は、500m上の台地にあった「小館」から現在地へ移す。
大斎原になぞらえて大原と称していたとある。
![](https://assets.st-note.com/img/1677818528125-1yEVxv1SEX.jpg)
橋がなかった音無川
東北の伝説には「橋をかける」話が多い。
対し、音無川には橋がなかった。
熊野本宮大社はかつて、
熊野川・音無川・岩田川の合流点にある
「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にあった。
![](https://assets.st-note.com/img/1677818609951-tvhiJfArrA.jpg?width=800)
江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、
参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、
着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりであったという。
![](https://assets.st-note.com/img/1677818645238-WP00INGTWZ.jpg)
音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清め、
神域に訪れた。
![](https://assets.st-note.com/img/1677820770026-m0cjVCfXbn.jpg)
![](https://assets.st-note.com/img/1677818667278-JojEPqIvNo.jpg)
明治22年(1889年)の大水害により被害を受け
社殿の多くが流出したため、
水害を免れた4社を現在の高台にある熊野本宮大社に遷座した。
![](https://assets.st-note.com/img/1677820806173-zc1bpt0QuB.jpg?width=800)
現在、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられている。
![](https://assets.st-note.com/img/1677818693279-cYnYm15iR7.jpg)
![](https://assets.st-note.com/img/1677818717831-hlsbJnroAG.jpg)
江戸時代まで音無川には橋が架けられず、
参拝者は音無川を草鞋を濡らして歩かなければならなかった。
濡藁沓(ぬれわろうづ)の入堂とも言われ、
清める必要があったから、あえて橋をかけなかった説がある。
![](https://assets.st-note.com/img/1677818911650-TkjTBZ6BEL.jpg)
音無川は別名、密河といった。
「密」と言われたからなのか、音無川の和歌には、罪や、別れの内容が散見される。
「音なしの川のながれは浅けれど
つみの深きにえこそわたらね」『拾遺和歌集』
恋(こひ)わびぬ音(ね)をだに
泣かむ声立てていづこなるらん音無の里『拾遺和歌集』
![](https://assets.st-note.com/img/1677818945725-a5fayHJLyj.jpg)
「音無の川とぞついに流れける 言はで物思ふ人の涙は」(清原元輔)
「君こふと人しれねはや 紀の国の音無川の音だにもせぬ」(紀貫之)
など、音無の里があり、音がない、音信不通というように、
音無川は、他の川に比べて和歌として多く用いられた文化的な川になる。
![](https://assets.st-note.com/img/1677818969590-YGFYuaOoKo.jpg)
みちのくの伝説では、橋をかける話が多いが、主に熊野信仰によりもたらされたものと考えられ、そのひとつ、「阿胡耶と松」も能になっており、藤原実方が関わる。
ところで、音無川が「密川」とよばれていたことからか、
「密語橋」という言葉が東北にある。
もうひとつ、名取と関わりをもたらしている伝説から、
東北では「橋をかける」意味を、紐解いてみたい。
![](https://assets.st-note.com/img/1677819270486-hZjjKA6EIi.jpg)
参照:熊野本宮大社公式サイト
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?