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 とある場所で70年代の伝説的思想誌『エピステーメー』をみつけた。
 こんなものが朝日新聞社から毎月出ていたという事実に驚きを隠せない。お金も、編集体力も、いまとは比べものにならないくらいあったんだなぁ。


 日記を丸一年書いていると、懺悔録に近づいていく。
 こうしてみると、キリスト教は社会の緩衝材としてよくできていると思う。一週間に一時間だけ、すべてに対して「ごめんなさい」する習慣があると妙に落ち着く。

 わたしは最近、「ひとはなぜ抽象的なアイデンティティに縛られるのか」をもっと考えたいと考えている。これは実体験に基づく感心だ。そして昨今の社会情勢からしてみても、アクチュアルなテーマだと思う。昔から現代にいたるまで、戦争とはほとんど国家のアイデンティティ(ナショナリズム)の問題であるからだ。

 わたしは最初、あらゆる文化を近代的知性(カント、マルクス)で批判するのがかっこいいと思っていたし、だからベンヤミンに触れた。
 だがベンヤミンだって、マルクス主義の原動力に、みずからの民族を絶やさんと願うユダヤ神秘主義の要素があった。あいつはメシアとか平気でいう。ホロコースト下ではそうでもいわなきゃやってられなかったのだろう。

 読むものを変えようとは思わない。ベンヤミンやソンタグなどの一見明晰にみえる批評家たちがいかにユダヤ人であることを背負っていたのか、そこをもっと批判的に見ようと思ったのだ。


コーヒーフロート

 フォロワーさんとたくさん通話した。いつもほんとうにありがとう。

 言いたいことが話せてよかった。
 特に、フィクションやアイデンティティ・ポリティクスにおいて性欲が透明化されてしまう問題。この問題意識を共有できてよかった。
 恋愛映画でも、ラブコメアニメでも、みんな男は清潔感のある人間になっていく。精液の臭いは脱臭され、爽やかなデオドラントの香りがする好青年になっていく。
 世知辛い。

 「性欲がありすぎる」苦しみって、他者からみるとバカバカしいけど、当事者からするとマジでやばい。
 アイデンティティ・ポリティクスはその名のとおり「政治」なので、非人間的で動物的な「無意識」の部分は当然切り捨てられる。
 セクシュアリティは細分化され、分析されても、性欲そのもののやばさはいつのまにかアンタッチャブルなものになっている。

 ほんとうはわたしだって、彼女パートナーとセックスしたくてしたくてたまらない。温泉旅館でおそろいの浴衣を着て、ふたりきり真っ暗な部屋で一晩中ず〜っと騎乗位されたい(なぜかこのシチュエーションに長らく憧れがある)。
 しかし彼女パートナーから性行為は拒絶されている。人間的には好いてくれているみたいで、だから親友までの段階はとても親しくしてくれる。彼女パートナーなりの気遣いもたくさん感じる。けど、そのさきは断固としてダメなのだ。
 これがどれだけ嬉しくて、同時に苦しいことか、読んでいる人間には誰ひとりわからないだろう。

 理性のレベルで友好な関係を築けても、生理的なレベルでは相手を受け入れられないかもしれない。逆に、人間性が大嫌いでも身体の相性がよすぎる関係というのも(わたしの想像だけど)きっとある。
 意識と無意識、理性と本能、建て前と本音、これらの絡み合いはもっと複雑で、組み合わせは無限通りあるはずなんだ。

 先ほど、わたし書いてきた日記をいくつか読み返した。9割方、性的なことについて書かれていた。うち3割は今日みたいに彼女パートナーとセックスできないことについて延々述べている。これを読んでいるあなたは嗤っているだろう。好きなだけ嗤えばいい。ばかげていると自分自身思ってる。
 恋人できてようやく気づいた。具体的な誰かに向けられる性欲は、誰でもいい性欲に比べて、ずっとエグい。

 同じ地点でぐるぐる回っている自覚はある。
 けれど、どうすれば彼女パートナーと親密になれるかわからない。
 おそらくこれは時間が解決する問題なのだろう。


 内なる藤田ことねに祈りながら寝る。

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