・
■から・へと改名した。
今後はこの空間を便宜的に指すときは「メモ」と呼ぶことにする。
noteの箇条書き機能を意識的に使用していこうと思う。このメモのスタイルを変容できると思ったからだ。
箇条書きは思考の限界を定めてしまう。昨日、今日と、試してみたが、いつもより感情を簡潔に書かざるをえなくなる。
おそらくわたしによい効果をもたらすだろう。いつも書きすぎるゆえに終わりなき自問自答にみずから飲み込まれてしまう。箇条書きは、強制的に終わりをもたらす。これはわたしのオリジナルではなく、千葉雅也が言っていたことだ。ラップだって声帯があるから書けるのだし、絵もキャンバスという範囲があるから書ける。あらゆる制作は、メディウムによってあらかじめ限界が規定されているからこそはじめることができる。
左手でポップコーンを鷲づかみにしてドカ食いしている。
シュルレアリスム的に書きなぐるのはやめようと思わない。いつもどおり、脈略のない箇条書きを連発していくつもりだ。
たとえばわたしたちは映画を観ているときも、コーラをすすって「んめぇな……」と心の片隅で感じていたりする。心が単線的になることほどありえないことはない。箇条書きの使用はあくまで心がけであって義務ではない。飽きればいつでも破ることができる。
箇条書きは接続詞を必要としない。
必ず結論から述べなければ成立しない。
ここにいたるまで何度も「しかし」「やはり」「それは」「これから」などを削除している。過剰接続からの切断とは、とても具体的な方法論である。接続詞を極力使わないということだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?