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 「ああ、明日会うんだから気の利いたことをLINEしなきゃな」と思って、アプリを開いた。
 「明日よるごはん前にちょっと早めに会おうか」っていうLINEが来ていた。


 ありがとう。


 今日はやたらと土砂降りだ。できるかぎり寝たほうがいい。でなければ、またおかしな日記を延々と書くことになるだろう。


 夕食を食べ終わって、そのまま座りながらエモラップを聴いている。「心の中なら傷だらけ」とか、そういう月刊少年ガンガンめいた紋切り型のセンチメンタリズムをいつまでも愛してしまう。
 おそらく30歳になろうと、40歳になろうと、そういう幼稚なセンチメンタリズムとは決別できないだろう。つまりは、ずっと碇シンジみたいなやつなのだ。TEENAGE VIBEをずっと持つはめになる。それが良いことか悪いことかはわからない。


 ひとびとが主に考えていることは、旅行と、料理と、自己啓発のことだ。

 先ほどスペースを開いたら、「トランス差別に反対します」とプロフィールに書いているひとが出てきた。わたしもそれに賛成する。けれど、いまいち現実味が持てない。

 最近生きていてつねづねかんじるのは、「社会問題」こそ趣味にほかならないということだ。

 みんな「社会」には生きていない。職場の同僚も興味がないし、彼女パートナーも、あらゆる学校の先生も、バスの運転手も、カフェの店員も、市役所員も、官僚もそうだろう。
 ジェンダー論は、ごく一部の趣味でしかない。
 わたしはわたしなりに、「知っておいたほうがよいかもしれない」と思っていた。いまの職場でも、周囲にも結構ジェンダー系の問題提起はする。うるさい奴だとは自覚している。

 最近生きていてつねづねかんじるのは、みんな自分の想像よりもはるかに料理・旅行・筋トレ・積立NISAのことばかり考えているということだ。かんたんな統計でもしてみればすぐわかる。

 以前までいた地域は、ジェンダーやSDGsなど含めたさまざまな社会問題についてのポスターがそこそこあった。いまの地域にはない。

 「地方」「田舎」という二項対立はまちがっている。「社会がある地域」と「社会がない地域」だ。

 彼女パートナーの世界には「社会」は存在しない。
 わたしはノンポリというか責任意識のない怠け者だと思っている。が、それでも、「社会」はある。「いつか出会うかもしれない未来の誰か」を想定して生きているからだ。

 「社会」なき人間といかに共存するべきか、これがわたしに課せられた問いである。

 訴えかけるべきなのか。
 文章や表現をただつくって、受け取ってくれるのを待つべきなのか。
 こっちがなにかするのは余計なお世話だ、と諦めるべきなのか。

 少なくとも、彼女パートナーとの会話はやりにくくなるだろう。
 だって自分と相手のことを話し尽くしたら、それより大きなレベルの何かについて話すしかなくない?

 ああ、黙れ、ということか?

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