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読書メーターでわたしのレビューにいいねがもらえてうれしい。
いいねをくれたその方は、いささか古風かつ明晰な文体で「南京大虐殺はなかった」「共産党ならともかく……」と述べていた。読んでいるまんがのセンスはよく、繊細な感受性がなければ魅力をとらえられないであろう作品もたくさん読んでいた。まんがレビューはどれもとてもよかった。
加えて、彼は百田尚樹を批判している。いわく、彼が表現しているのはポピュリズムに侵された歴史観であり、左派マスコミとやっていることが同じだからだ、と。
①まんがや小説から微細な感情表現をみてとる感受性
②ポピュリズムに煽動されずたくさんの本を読むメディアリテラシー
③朝日新聞・共産党・共産主義が諸悪の根源であり、南京大虐殺は存在しないという歴史認識
これらはひとりの人間に共存してしまえる。
おそらくこういうひととは、ネット上で書きことばのやりとりをしたら喧嘩になる。しかし現実世界で会ったとしたら、案外仲良くなれてしまうのだ。きっとふつうにガンズ・アンド・ローゼズだとかザ・キュアーだとか聴いているから。
書きことばって難しい。
意外にも西尾幹二、西部邁の名前は出てこなかった。彼らこそ反ポピュリズムのニヒリスト。歴史の虚構性を理解してもなお歴史への執念から逃れられない人。いいねをくれた彼の感受性にも合うと思ったんだけどね。
・ゆるキャン△ 第3期
・ブルーアーカイブ THE ANIMATION
・夜のクラゲは泳げない
・ガールズバンドクライ
これらの最終回を観た。
井芹仁菜はバカだ。けっきょくいま、まさに誰かから捧げられている愛に気づけていないだけだったんだろう。
おそらく井芹仁菜はこれからも見逃しつづける。子は親の想いなど知らない。今日も井芹仁菜は川崎の街で、幼さの特権を享受しているのだろう。
井芹仁菜には、成功欲もコンプレックスもない。いまわたしが社会でどういう評価だとか、そういう客観性をことごとく欠いている。彼女の行動指針に核心はあるようで、ない。
理由のない頑固さと攻撃性だけがただある。あいつは納得したいだけ。だが、その納得が思春期には一番難しい。
実はガールズバンドクライの二次創作小説をちまちま書いてたけど、全部ボツにした。
わたしが思ってるより、井芹仁菜は何にも考えていない。表現の意義、人生の意味、ロックの歴史、そういう悩み方はしない。バカだから。
「わたしが最強、世界が間違ってる」といつまでも言いつづける。
ガールズバンドクライ。ゆるキャン△。ダンジョン飯。ブルーアーカイブ。夜のクラゲは泳げない。
これを毎週観ていた2024年春クールは、「人生でいちばんアニメ鑑賞が楽しかった時期」として記憶されるだろう。
ついでに、観れてないけど、ささこい・シャニマス・ユーフォ・このすば・ひみつのアイプリも放送されていた。
レナードの朝、第二幕(全体の3分の2)まで観た。
「アメリカの史実に基づくええ話系ハリウッド映画」の系譜である。
内容よりも、90年代アメリカの牧歌的なトーンを味わいたくて再生した。『ショーシャンクの空に』『ジュラシックパーク』的なノリを。だが安堵をもたらしてくれるだけではなく、予想以上におもしろい。
ロバート・デ・ニーロをはじめとするさまざまな役者が、パーキンソン病で身体が硬直した患者の演技をしている。部屋中のひとびとがバラバラの動きをしながら呻いている絵面は壮絶である。
たしかに当事者でない人間が病人を演じるのは、リアルではない。それはマジョリティによる表現領域の簒奪かもしれない。今日的な視点ではおそらく批判もあるだろうし、もしかすると撮ることは許されないかもしれない。
けれどもわたしは、非当事者がマイノリティを演じる試みを否定できない。
ロバート・デ・ニーロは、理解しえない他者を演じる想像力とはなにかを体現していた。彼は病人そのものにはもちろんなれない。だが、病人を演じようとした彼の執念はとても伝わってくる。それを疑うやつなどひとりもいない。
表現にとって大事なのはリアルかどうかではなく、リアリティだ。
ほんとは彼のかわいい顔が見れれば満足、くらいに思って再生したが、とても驚かされた。
また、『素晴らしき哉、人生!』『サマーウォーズ』めいた「善人にみんな募金してくれる」という元気玉展開があるのにもニヤリとした。
それを子供だましや綺麗事というのは実にかんたんだ。それでもなお、牧歌的な「善行」が描かれると心があったまる。
みんながみんな性善説的な映画だったら嫌だが、いちばん観られる映画はいつでもこうであってほしいものだ。
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ベルイマンやらタルコフスキーやらを観るのがかっこいいと思っていた時期もある。だがいまは、ハリウッド映画を観たい気分だ。
映画は、神話を伝達するメディアでもある。映画はプロパガンダで人を殺すこともできるし、大衆に素朴な隣人愛を説くこともできる。今回観た『レナードの朝』を通して、まさにアメリカ合衆国は映画によって自国のアイデンティティや道徳性を守っているのだと再確認した。
ブレッソンみたいに映画の自律性を追求する試みももちろんあるが、いまはそっちの気分じゃないんだ。
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