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岩手靖国訴訟の「公式参拝」が全く別物だという話

いわゆる「靖国訴訟」には、中曽根総理、小泉総理、安倍総理に関係するものがありますが、中曽根総理に関連するものとして有名なのが「岩手靖国訴訟」です。

 平成3年1月10日仙台高裁判決 昭和62(行コ)4

この事案はかなり特殊なのですが、天皇や総理大臣の「公式参拝」が違憲だと傍論で判示したことから、左派系の人たちが好んで引用する判決文となっています。

しかし、ここで言う「公式参拝」とは、私たちが想像するものとは全く別ものだということが、判決文の原文を読んで気づきました。

追記:詳細解説版は以下

岩手靖国訴訟の被告は総理大臣ではない

大前提として、岩手靖国訴訟の構造を簡単に書きます。

原告は岩手県民、被告は岩手県議会の議員らです。

理由は、昭和54年12月19日、岩手県議会が「天皇と内閣総理大臣の靖国神社公式参拝を実現されたい」という決議をし、国に意見書を採択し政府に陳情書を届けたことです。

原告らは、これは憲法の政教分離の原則に反するとして、それに要した印刷代・用紙代・旅費を返還せよと求めたのが岩手靖国訴訟です。
※その後、岩手県が1962年から靖国神社の要請で玉串料や献灯料を支出していたことが発覚したため、その返還もあわせて一つの訴訟となった。

天皇と内閣総理大臣の靖国参拝

ここで疑問に思った方も居ると思います。

天皇と内閣総理大臣って、昭和54年の時点で戦後何度も靖国参拝しているよな?』『それって公式参拝じゃないの?』

実は、これには靖国参拝に関する政府見解が影響しています。

昭和50年に三木武夫総理が、終戦の日に参拝する初の総理大臣になろうとして参拝しようとしたところ、朝日新聞記者に「私人としてですか?公人としてですか?」と質問され、「私人」と答えたのが諸悪の元凶です。

「戦後は公式参拝は無かった」が昭和50年の政府見解

 平成3年1月10日仙台高裁判決 昭和62(行コ)4=岩手靖国訴訟判決でも触れられていますが、昭和50年11月28日付の政府見解は「天皇が戦後に行った参拝はすべて私的参拝だった」とするものでした。

また、仙台高裁が認定した事実として、「昭和50年頃から天皇及び内閣総理大臣その他の国務大臣が靖国神社に私的資格で参拝していたことに対して、公的資格で参拝するべきとの運動が展開されるに至った」とあります。

では、何が「公式参拝」なのでしょうか?

仙台高裁が【前記5で認定した事実関係のもとで本件議決でその実現を要望する「靖国神社公式参拝」】と、わざわざかっこ書をしていることから、その前を見ると分かります。

岩手靖国訴訟の「公式参拝」

戦前の天皇の靖国公式参拝

判決文第五の二の5の(3)から始まる「戦前戦後における天皇、内閣総理大臣靖国神社参拝」に、「公式参拝」の様子が載っています。

1:御祭神の遺族は全部国の費用で御招待され
2:合祀祭と称し四日間乃至五日間行われ
3:第一日目には必ず勅使が御参向
4:第二日目か第三日目には、天皇、皇后両陛下が御参拝になり、各皇族方を始め、内閣総理大臣、各国務大臣、又外国の使臣等も御参拝

このような事情から、仙台高裁は「戦前における天皇の参拝は、国の公式儀礼としての参拝であり、内閣総理大臣の参拝は、いわば天皇の随臣としての性格を有するものであった」と指摘しています。

つまり、岩手靖国訴訟における仙台高裁は、岩手県議会が要望していた「公式参拝」とは、このような内容を意味するものと認定していたのです。

決して、「公人名義で公費で神道形式に則った儀礼で参拝すること」という意味内容の「公式参拝」ではないのです。

「公式参拝」の中身を誤魔化す政党・メディア

「しんぶん赤旗」これまでの靖国訴訟の判決とは?

共産党の岩手靖国訴訟の説明を見ても分かりますが、「公式参拝」の中身に言及せず、現代の我々が想起するような「公式参拝」が違憲と判示されたのだと読者が思い込むような構成になっています。

メディアの側がこの点を明確にすることもありません。

このような記述はネット上でも多数見つかります。

「公式参拝」という言葉を使っているので間違いではありませんが、その意味内容が一般人が想起するものとはかけ離れているため、まるで「下級審において参拝行為について判断が分かれている」かのような理解になるのです。

こうした誘導がそこかしこに行われているのです。

以上

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