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岩手靖国訴訟仙台高裁判決の補足

こちらの補足です。

岩手靖国訴訟の「公式参拝」仙台高裁と盛岡地裁

 平成3年1月10日仙台高裁判決 昭和62(行コ)4
昭和62年3月5日 盛岡地裁 昭和56年(行ウ)2・昭和57年(行ウ)第4号

岩手靖国訴訟の「公式参拝」の意味内容について

仙台高裁は判決文第五の二の6の(三)の(1)において以下「認定」しています。

(三) 靖國神社公式参拝について
(1) 靖國神社公式参拝のもつ宗教的意義等
そこで、右の見地に立って、前記5で認定した事実関係のもとで、本件議決でその実現を要望する「靖國神社公式参拝」が、憲法二〇条三項によって禁止される宗教的活動に当たるかどうかについて以下検討するが、まず、右公式参拝のもつ宗教的意義について考えてみる。
右公式参拝とは、本件議決の内容全体のほか、前記認定の本件議決がなされるに至った経緯等に照らすと、天皇、内閣総理大臣が公的な資格で宗教法人である靖國神社に赴いて拝礼することを意味するものと考えられる

しかし、「公的な資格」とはどういう意味なのか、仙台高裁判決では不明です。これでは「公式参拝」を単に言い換えただけに過ぎません。

この点、盛岡地裁判決は「第一 昭和56年(行ウ)第2号事件」の(予備的請求に関する判断)の「二」「三」において以下言及しています。

二 しかしながら、岩手県議会が可決した本件決議は、その文面によると、内閣総理大臣、総理府総務長官、衆参両議院議長に対し、その趣旨を「靖国神社公式参拝を実現せられたい。」とする請願乃至は陳情であり、その公式参拝の公式たる点については明確に触れられておらず、右請願、陳情の理由の前段は「英霊に対し、尊崇感謝の誠を捧げ、国として公式儀礼を尽くすことは、きわめて当然のことであり、世界いずれの国においても行われている。」とあり、その後段には「戦後、靖国神社は国の手を離れ、天皇陛下のご参拝も内閣総理大臣などの参拝も全て個人的なものとして扱われ、また国際儀礼として当然な国賓の靖国神社参拝も行われていないことは、きわめて遺憾であり、速やかに国の代表並びに国賓の靖国神社公式参拝が実現されるよう強く要望する。」とあるのみで、果して、公式参拝なるものが、天皇並びに内閣総理大臣等が公人としての資格立場において単に靖国神社に参拝することを意味するものか、あるいは国の行事として公費をもって参拝を行うことを意味するのか、右の文面のみからは不明である。しかして、原告らは公式参拝の意義について前記の如く主張するのみで、これにつき被告らにおいて原告ら主張の意義内容の参拝を求める趣旨で本件決議をしたことの立証はなく、また、被告らからもこの点についてはなんらの主張立証はない。《証拠略》によると、本件決議案提出議員はもちろん、その他の発言議員も、主として同神社の性格、過去の戦争の歴史的意義等を中心として討論したうえで表決がなされたことが認められるが、内閣総理大臣等に請願陳情すべき公式参拝の形式、内容も、その公式性についても深く触れているものとは認めることができない。
三 したがって、公式参拝の公式たる点については、本件決議の文意と本件決議がなされた当時世上に論議された点を考慮して判断するほかはない。しかして、本件決議が「国として公式儀礼を尽くすことは当然である」といい、「内閣総理大臣などの参拝もすべて個人的なものとして扱われ」ていることは「遺憾であり」、「国の代表の」「公式参拝が実現されるよう強く要望する。」とある点をみても、また、成立に争いのない乙第23号証によって存在を認めることのできる内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社参拝に関する政府統一見解(昭和53年10月17日参議院内閣委員会における安倍官房長官答弁)、昭和55年11月17日の国務大臣の靖国神社参拝についての政府統一見解によって検討しても、被告らが要望する公式参拝は内閣総理大臣その他の国務大臣、衆、参両議院議長が公的資格で行う参拝を意味するもののように解される。

「三」において、「公的資格で行う参拝」という文言を使っているのは仙台高裁と同じですが、その前段として「二」において、「果して、公式参拝なるものが、天皇並びに内閣総理大臣等が公人としての資格立場において単に靖国神社に参拝することを意味するものか、あるいは国の行事として公費をもって参拝を行うことを意味するのか、右の文面のみからは不明である。」としていることからは、盛岡地裁の言う「公的資格」とは、「肩書を公的なものにして参拝すること」として扱っていたことがわかります。

岩手県議会議員の要望書にいう「公式参拝」

(別紙)
昭和54年12月19日
内閣総理大臣殿 総理府総務長官殿 衆議院議長殿 参議院議長殿
盛岡市内丸10番1号 岩手県議会議長 高橋清孝
靖国神社公式参拝について
靖国神社公式参拝を実現せられたい。
理   由 
靖国神社には平和のいしずえ250万英霊がまつられている。英霊に対し、尊崇感謝の誠を捧げ、国として公式儀礼を尽くすことは、きわめて当然のことであり、世界いずれの国においても行われている。
 しかるに、戦後、靖国神社は国の手を離れ、天皇陛下のご参拝も、内閣総理大臣などの参拝もすべて個人的なものとして扱われ、また国際儀礼として当然の国賓の靖国神社参拝も行われていないことは、きわめて遺憾であり、速やかに国の代表並びに国賓の靖国神社公式参拝が実現されるよう強く要望する。

盛岡地裁がこの文面を見ながら「果して、公式参拝なるものが、天皇並びに内閣総理大臣等が公人としての資格立場において単に靖国神社に参拝することを意味するものか、あるいは国の行事として公費をもって参拝を行うことを意味するのか、右の文面のみからは不明である。」とし、他の政府見解から前者であると認定したことは、少し不思議な気がします。

国賓」とまで言っているのですから、国が公費を使った行事としてお招きするべき、という意思を感じるからです。

これは仙台高裁判決で紹介された戦前の「公式参拝」が念頭にあったと思われるのですが、主張立証責任の所在から来る認定過程の問題だったのかはよくわかりません。

盛岡地裁は戦前の「公式参拝」に触れていない

盛岡地裁は仙台高裁とは異なり、戦前の天皇の「公式参拝」に触れていません。

仙台高裁判決の判決文第五の二の5の(3)から始まる「戦前戦後における天皇、内閣総理大臣靖国神社参拝」に、「公式参拝」の様子が載っています。

1:御祭神の遺族は全部国の費用で御招待され
2:合祀祭と称し四日間乃至五日間行われ
3:第一日目には必ず勅使が御参向
4:第二日目か第三日目には、天皇、皇后両陛下が御参拝になり、各皇族方を始め、内閣総理大臣、各国務大臣、又外国の使臣等も御参拝

仙台高裁判決文第五の二の6の(三)の(3)の(エ)では、戦前の天皇の公式参拝が念頭にあることが分かります。

(エ) さらに、天皇の公式参拝については、前記のとおり昭和五〇年一一月二八日付けで政府が私的参拝と確認した時以降、特に本格的な論議の対象となっていないが、本件議決は天皇の公式参拝をも要望しているので、この点についても触れておく必要がある。仮に、天皇の公式参拝が憲法二〇条三項との関係で合憲とされた場合、天皇の公式参拝はどのような方式及び規模で行われることになるであろうか。戦前における天皇の公式参拝が、親拝と呼ばれ、その方式が独特のものであることは前記のとおりであり、また、戦前の合祀祭が天皇のほか、皇族及び内閣総理日付けで政府が私的参拝と確認した時以降、特に本格的な論議の対象となっていないが、本件議決は天皇の公式参拝をも要望しているので、この点についても触れておく必要がある。仮に、天皇の公式参拝が憲法二〇条三項との関係で合憲とされた場合、天皇の公式参拝はどのような方式及び規模で行われることになるであろうか。戦前における天皇の公式参拝が、親拝と呼ばれ、その方式が独特のものであることは前記のとおりであり、また、戦前の合祀祭が天皇のほか、皇族及び内閣総大臣以下の参加のもとに盛大かつ厳粛に執り行われたこと前記のとおりである。靖國神社が宗教法人になってからの天皇の公式参拝はなされていないから、その方式及び規模がどうなるかは定かでないが、天皇の公式参拝が行われるとすれば、天皇の公式儀礼としてふさわしい方式と規模を考えなければならず、また、天皇が皇室における祭祀の継承者でもある点をも視野にいれなくではならないであろう。右のような点を考え合わせると、天皇の公式参拝は、内閣総理大臣のそれとは比べられないほど、政教分離の原則との関係において国家社会に計りしれない影響を及ぼすであろうことが容易に推測されるところである。

ですから、天皇の「私的参拝」(当時の三木内閣がそのように表現したのが発端)とは異なる「公的参拝」は、単に肩書が公的なものである以上の意味合いがあるということになります(このような区分け自体、いかがなものかと思うが)。

仙台高判が『右公式参拝とは…天皇…が公的な資格で宗教法人である靖國神社に赴いて拝礼することを意味するもの』と表現していたとしても、結局は単に肩書の問題として扱っていないのです。

内閣総理大臣の「公式参拝」も、肩書以上の意味合い

先日の岩手靖国訴訟の仙台高裁判決に関する記事では『決して、「公人名義で公費で神道形式に則った儀礼で参拝すること」という意味内容の「公式参拝」ではない』と書きました。

どのようにしてそう理解できるのか?という点について若干の補足をしたいのですが、文量も多いので次回に回します。

一点指摘するとすれば、判決文では天皇ではなく、内閣総理大臣の「公式参拝」に関する記述が大半を占めているのですが、その中で「宗教的色彩が濃厚な公式参拝という行為」といった表現が出てきています。

「公式参拝=公的な資格での参拝」が、単に「公人としての肩書を付して参拝すること」ということを意味するなら、「宗教的色彩が濃厚な」とはなり得ません。

記述の内に、実質的な参拝方法がいつの間にか盛り込まれているのです。

このように普通の判決文とは明らかに異なる妙な作文となっているのです。

以上

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